片柳弘史著『ぬくもりの記憶』(教文館)を読んで


60個のエッセイが収まっています

ぬくもりの記憶
『ぬくもりの記憶』(教文館刊)

1つのエッセイは、見開き1ページにおさまっているのでとても読みやすく、行間に優しさがたくさんつまっています。

片柳弘史神父の育った環境や、子供のころのこと、両親への思い、神父へと導かれた理由。私が知らなかった、様々な片柳神父の過去が、この本には語られていました。

たとえば、片柳神父は「園芸農家で花に囲まれて育った」と語ります。片柳神父のTwitterには、美しい花の写真やかわいらしい鳥の写真など投稿されていますが、子供の頃から、花に囲まれて育ったんだな、と知りました。小学生だった頃のことも書かれているので、片柳神父の愛読者にとっては、ワクワクする一冊になると思います。

 

★外部サイト

本のひろばより、小島師より批評があります。PDFファイルです。ズームしたらみやすいです。https://honhiro.com/wp-content/uploads/2022/02/2019_10.pdf


子どもたちへの優しい思いが、たくさんつまった本です

片柳神父は、幼稚園で神様のお話をしたり、教誨師をしていることが、宇部教会の司祭紹介ページで書かれています。この本には、片柳神父の子どもたちへの思いなども書かれています。

たとえば、片柳神父は次のように書いています

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・3)とイエス。キリストが聖書の中で語っているが、幼稚園で働いていると、確かに幼い子どもたちは天国に近いところにいると思うことがよくある。

 たとえば、幼い子どもたちは、互いに競いあうことがない。むしろ、他の子が頑張って何かできるようになると、まるで自分のことのように喜んで、「〇〇ちゃん、あれができるんだよ。すごいんだよ」と報告しに来る。

 おそらく、幼い子どもたちは、自分が親や先生たちから愛されていることに、何の疑問も抱いていないのだろう。「自分は愛されている。愛されるために、他の子と競いあう必要などまったくない」と確信しているからこそ、何のこだわりもなく、他のよいところを選べるのだ。そのような子どもたちは、他の子が泣いているときには、「どうしたの」と優しく声をかけられる子どもたちである。心を満たした愛が、苦しんでいる友だちに向かって自然に流れ出してゆくようだ。

 残念ながら、そのような子どもたちでも、年中、年長と成長していく中で、友だちと競争し始めることがある。兄弟姉妹が生まれたり、他の子と比較されたりする中で、しだいに自分が愛されていることに確信が持てなくなり、愛されるためには人と争わなければならないと思い始めるようだ。


大人になるにつれて、神さまの愛を疑ってしまいがちです。私も生活するなかで、何か特別なことができなければ価値がないんだ、と誤解することがあります。私も子供のような疑わない心をもちたいと思いました。

なお、ぬくもりの記憶の「おおらかに」の文章で、片柳神父が幼稚園で保育の様子を見ていると教室によってずいぶん雰囲気が違うことについて書かれています。その理由は、心のともしびから読むことができます。

 


神さまに委ねて

生活の中で、慌ただしくすごしてしまう時に、片柳神父の言葉は、優しく寄り添ってくれます。片柳弘史神父は次のようにいいます。

「明日は何をたべよう、何を着よう。どうやって暮らしてゆこう」などと先のことを心配して思い悩んでいる人々に、イエス・キリストは、「空の鳥をよく見なさい」と語りかけた。鳥たちは社会的な成功をおさめているわけでも、立派な仕事をしているわけでもない。それにもかかわらず、神さまは毎日の糧を与え、養ってくださっている。鳥たちでさえそうなのだから、もしわたしたち人間が失敗し、何もできなくなったとしても、神さまは必ず生きてゆくために必要なものを与えてくださるに違いない。先のことは神さまの手に委ねて、鳥たちのように、一日一日を精いっぱいに生きなさいというのだ。

 そもそも、先のことをあれこれ思い煩ったところで、明日まで生きている保証さえわたしたち人間にはない。それどころか、一分先に何が起こるかさえ予測できないのが人間の限界なのだ。先のことをあれこれ思い煩っても、あまり意味がない。わたしたちにできるのは、与えられた今この瞬間を精いっぱいに生きることだけなのだ。

 仕事に追われ、様々なことに思い悩む日々の中で、わたしたちは空の鳥をじっと見たり、道端の花に目をとめたりするゆとりを失っている。そんなときにこそ、「空の鳥をよく見なさい」(マタイ6・26)というイエスの言葉を思い出したい。鳥や花、空をゆく雲の美しさに魅了され、時間を忘れて大自然と向かい合っているうちに、日々の生活の思い煩いで疲れ切った心は少しずつ癒されてゆく。そして、あわただしい生活の中で忘れていた大切なことを思い出す。わたしたちは、神さまの大きな愛の中で生きている。先のことなど、何も心配する必要がないのだ。空を飛ぶ鳥や野に咲く花のように、一日一日を精いっぱい生きてゆきたい。


疲れた時は、ゆっくり休んでいいんだな、と感じました。立ち止まると花や鳥の鳴き声が聞こえたり、神様の愛で生かされている美しい世界を見ることができます。毎日走り続けていたら体がもたないと思います。先のことを考えすぎて動けなくなったら、ゆっくり休み、神さまに委ねたいと思いました。

また片柳弘史神父は、今自分ができることを丁寧にしてゆくことだ、と言います。将来ばかり目がいくと「今」という時を軽んじてしまうと思います。完璧にしなくてよいので、自分のできないことは素直に認め、できることは精一杯してゆく。たとえ、自分の思い通りにならなくても、神さまに委ねて歩いてゆきたいと思うようになりました。


花の写真を撮るコツ

片柳神父は次のように書いています。

子育て中の鳥の親子や、光を浴びて輝く花の写真などを人に見せると、「どうしたら、こんな瞬間を写真に収められるんですか」と尋ねられることがある。「それは、暇だからです」と、わたしは答えることにしている。

 実際、忙しくて目の前の花や鳥たちをゆっくり眺める時間のないときに、よい写真を撮ることはできない。「あれもしなければ、これもしなければ」と次のことを考えながら、そそくさと写真を撮っても、決していい写真にはならないのだ。撮影に出かけるときは、他のことをすべて脇に置いて、撮りたい花や鳥たちに気持ちを集中する必要がある。あわただしい人間の時間の流れを離れて、花や鳥の時間の流れに身を委ねると言ってもいいだろう。花には花の時間があり、鳥には鳥の時間がある。「次の仕事があるから10分のうちに写真を撮ろう」というような気持ちを捨て、人間の時間を忘れて花や鳥と向かい合わなければ、決していい写真は撮れないのだ。

 時間を忘れて写真を撮るうちに、花や鳥は、わたしたちがこれまでに見たことのないような表情や動きを見せてくれる。「わたしは、花や鳥のことを何も知らなかった」と思わされるようなことも度々ある。人間の時間を離れ、自然の時間の流れの中に迷い込んできた人間だけに、自然は自分の本当の顔を見せてくれるのかもしれない。


~生きていると、つい慌ててしまいます。立ち止まるゆとりを忘れ、花の前を通りすぎてしまうことがあります。しかし、花とにらめっこするなかで、心はゆったりして、安らぎに満たされ、深呼吸できるのを感じます。人が慌ててしまうのは、効率を求めてしまっているからだとおもいます。しかし、雲をぼーっとながめたり、野原の虫たちの鳴き声を効いたり、森の中で葉がゆれる音をきくなかで、疲れた心は自然のゆったりした時間に満たされ、癒されてゆくと思います。暇になることは、もしかして、幸せへの道へ続く大切なことだと思いました。


生きているだけで

片柳神父は次のように書いています。

世界は神さまによって造られたと、キリスト教では信じている。空や大地、海、そこに生きる木々や草花、動物、魚、そしてわたしたち人間の一人ひとりも、神さまによって造られたということだ。最初の人間であるアダムは泥から造られたと聖書に記されているが、神さまはきっと、陶芸家が土をこねて器をつくるように、わたしたち一人ひとりを丁寧に形作られるのだろう。わたしはそんな風に想像してる。

 神さまという陶芸家は、何かを造るときに手を抜くことがない。どの作品も、妥協なく、完璧に仕上げてからこの世界に送り出す。だから、言ってみれば、わたしたちの誰もが神さまの最高傑作なのだ。少なくとも、神さまが造ったものに失敗作など存在しない。

 ところが、そう言われてもわたしたちはなかなか納得できない。「何のとりえもないありふれたわたしの、どこが最高傑作なのだろう」と疑ってしまうのだ。


~私は仕事が覚えれなくて、「自分はつまらない人間だ」と思っていました。しかし、「できる」「できない」で神様は私たちを見るのではなく、ただ生きているだけで喜んでくださる方だと思いました。

小さいときから競争させられ、自分の価値を認めてもらうために、必死になってしまう時があります。立ち止まることを恐れ、みんなも頑張っているからと、進む方向も確認せずに生きてしまうことがあります。しかし、その生き方だと疲れはててしまうと思いました。人間には体力の限界もあります。背負える荷物にも限界があります。神様は人間をつくるとき、できることや、できないことも一人ひとりに与えたと思います。自分の限界を謙虚に認め、助けあってすごしてゆきたいです。


ゆったりと

片柳神父は次のように書いています。

「明日は何をたべよう、何を着よう。どうやって暮らしてゆこう」などと先のことを心配して思い悩んでいる人々に、イエス・キリストは、「空の鳥をよく見なさい」と語りかけた。鳥たちは社会的な成功をおさめているわけでも、立派な仕事をしているわけでもない。それにもかかわらず、神さまは毎日の糧を与え、養ってくださっている。鳥たちでさえそうなのだから、もしわたしたち人間が失敗し、何もできなくなったとしても、神さまは必ず生きてゆくために必要なものを与えてくださるに違いない。先のことは神さまの手に委ねて、鳥たちのように、一日一日を精いっぱいに生きなさいというのだ。

 そもそも、先のことをあれこれ思い煩ったところで、明日まで生きている保証さえわたしたち人間にはない。それどころか、一分先に何が起こるかさえ予測できないのが人間の限界なのだ。先のことをあれこれ思い煩っても、あまり意味がない。わたしたちにできるのは、与えられた今この瞬間を精いっぱいに生きることだけなのだ。

 仕事に追われ、様々なことに思い悩む日々の中で、わたしたちは空の鳥をじっと見たり、道端の花に目をとめたりするゆとりを失っている。そんなときにこそ、「空の鳥をよく見なさい」(マタイ6・26)というイエスの言葉を思い出したい。鳥や花、空をゆく雲の美しさに魅了され、時間を忘れて大自然と向かい合っているうちに、日々の生活の思い煩いで疲れ切った心は少しずつ癒されてゆく。そして、あわただしい生活の中で忘れていた大切なことを思い出す。わたしたちは、神さまの大きな愛の中で生きている。先のことなど、何も心配する必要がないのだ。空を飛ぶ鳥や野に咲く花のように、一日一日を精いっぱい生きてゆきたい。


~森林に包まれていると、つい深呼吸してしまう。浅かった呼吸も深くなり、新鮮な空気で満たされる。時間を忘れてなにかに魅了されたのは、はたしていつの頃だっただろう。他人に負けまいとして、他人を蹴落として生きようとする自分。しかし病気になって、すべてのプライドはくずれていった気がする。他人に勝つよりも、共にいきることを、できないことを隠すよりもオープンにすることを、弱さをみせてもわたしが私であるだけで大切にしてくれた人と出会った。空を飛ぶ鳥のように、ゆったりと私は私らしく助けあっていきてゆきたい。



道はたくさんある

片柳神父は次のように書いています。

将来が心配になるのは、心のどこかで「自分の未来はこうでなければならない」と思っているからだろう。苦しくなるのは、自分の人生が自分の思った通りにならないからなのだ。だとすれば、いますべきことに次々と取り組んでいるうちに新しい可能性が見つかり、「必ずしも道は一つではない。他にも道はいろいろとありそうだ」と思えるようになったなら、将来への心配は薄れるに違いない。

片柳弘史著『ぬくもりの記憶』 (教文館)より


~※本を読んで思ったことです。

 私は仕事が覚えれなくて、「自分はつまらない人間だ」と思っていました。しかし、「できる」「できない」ではなく、ただ生きているだけでよいんだとおもいました。

小さいときから競争させられ、自分の価値を認めてもらうために、必死になってしまう時があります。私は立ち止まることを恐れ、みんなも頑張っているからと、進む方向も確認せずに生きてしまうことがありました。

しかし、その生き方だと疲れはててしまいました。「こうであらねばならない」と思うと、つらくなってきます。

人間には体力の限界もあります。背負える荷物にも限界があります。できることや、できないこともあるから、助け合ってゆけると思います。自分の限界を謙虚に認め、助けあってすごしてゆきたいです。


心のともしび

心のともしびでは過去の放送した片柳弘史神父のメッセージを読むことができます。『ぬくもりの記憶』におさめられた文章にも出会えます。過去のメッセージはこちらです