片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館)


聖書を読むのが、面白くなりました。

あなたはわたしの愛する子
『あなたはわたしの愛する子』

片柳弘史神父のブログ「道の途中で」の、バイブル・エッセイより、40個の聖書エッセイがおさめられています。私はこの本を読む前は、どこか聖書を読んでも神さまの愛が遠くに感じていました。しかし本書のおかげで、聖書ってこんなに面白かったっけ?と感激しました。視点をかえてみると、こんなふうに聖書を読めるんだなと思いワクワクしました。おそらく、片柳弘史神父自身が、イエスの愛にふれて喜んでいるんでしょうね。私にもその喜びが伝わってきました。


★外部サイト

本のひろばより、久米師より批評があります。PDFファイルです。ズームしたらみやすいです。https://honhiro.com/wp-content/uploads/2022/02/2020_07.pdf


等身大な自分で

本書の「足を差し出す」には、イエスが弟子の足を洗う箇所のエッセイが書かれています。私は、神さまの前でいつもよいこでないと愛されない、と誤解していました。しかし、著者は次のように言います。


イエスは、わたしの汚れた足、汚れた心を見たところで、決してわたしたちを嫌いになることはありません。むしろ、わたしたちがイエスの愛を信じ、汚れた部分を差し出すことを喜んでくださいます。何も隠さず、あるがままの自分を差し出すということは、とりも直さず、「わたしはあなたを信頼している」という意味だからです。信じて汚れた部分を差し出すとき、心の汚れを包み隠さず告白するとき、イエスはその汚れをすべて洗い流してくださいます。


~神さまに私のありのままの気持ちを祈ってよいのに、「神さまの助けなんていらないので、自分の力でなんとかやっていきます」と強がっている自分に気づきました。神さまに作られた等身大の自分でも大丈夫なんだよ、と慰められた気持ちになりホットしました。神さまに自分の弱さを隠すのではなく、あるがままの自分を差し出していきたいです。

 


弱さに注がれる神さまの愛

片柳神父は、人の弱さに注がれる神様の愛を語ります。「からし種一粒の信仰」の中で、次のように語ります。

自分の力に頼っている人は、自分の力で乗り越えられないほどの現実に直面するとき、打ちのめされて転びます。しかし、自分の弱さを知って神の手にすべて委ねている人は、神の力によってあらゆる困難を乗り越えてゆくことができます。


自分の弱さを否定的に捉えていまいがちです。そんな私に、自分の弱さや限界を知っているからこそ、神の手に委ねられるのではないか、と神父は言っているような気がしました。人間関係のなかで、相手の欠点を探すのは得意ですが、相手のよいところを探し、弱いところはサポートしあえばよいな、と思いました。片柳神父の言葉から、「あなたで十分だよ」と一人一人に語ってくださる神様の愛を、私は感じました。

 


子育てに悩むときに

本書の「神様からの預かりもの」は、子育てに悩むときに読むと、ホットすると思います。片柳神父は、神父の仕事をしながら、幼稚園でお話もしているので、とてもわかりやすいです。なお、「神様からの預かりもの」は、片柳神父のブログからも読むことができます。


愛されている

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2018/12/29/223337
神の言は愛であり、愛は神そのものなのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」ということはつまり、「すべてのものは愛から生まれてきた。愛されずに生まれてきたものなど、何一つない」ということです。わたしたち一人ひとりも、例外ではありません。わたしたちは、神様の満ちあふれる愛の中から生まれてきた、神様の子どもなのです。この愛こそが、わたしたちを生かす力、わたしたちの命だと言ってもいいでしょう。「わたしは神様から愛された、かけがえのない存在。わたしの人生には意味がある」という確信こそが、わたしたちが生きてゆくための力、わたしたちの命なのです。


~業績や生産性が求められる時代にあって、くたびれてしまう時があります。しかし、なにもできなくても、ただ生きているだけで、「いてくれるだけで嬉しいよ」と呼ばれたら嬉しくなります。神さまは一人ひとりを大切に造られました。だれもが、神さまに愛されている最高傑作。「私はつまらないんだ」という誤解は捨て去り、いま注がれている神さまの愛に心を開いてゆきたいと思いました。


命の輝き

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2019/12/25/133156
わたしたちの命は、生きている限り、わたしたちの中で輝き続けているのです。皆さんも、わたしも、一人ひとりが、世界にたった一つだけの自分の光を放って輝く、かけがえのない命なのです。ところが、わたしたちはそのことに気づきません。そこで、自分を何とか輝かせよう、人目を引こうとして人と競争し始めます。たくさんの物を手に入れてそのことを自慢したり、財産や地位を誇ったり、人を見下したりし始めるのです。結果として、命の光は遮られてしまいます。自分で自分を輝かせようとして、かえってわたしたちは輝きを失ってしまうことが多いのです。輝くために、何かを手に入れたり、大きな業績を上げたりする必要はありません。命を輝かせるためには、与えられた命を、ただ精一杯に生きればいいのです。


~「今の私では不十分だから、もっとがんばらないと」と、つい思ってしまいます。しかし、背伸びしているうちに複雑になってしまい、ますますじぶんの気持ちがわからなくなってくると思います。黄色のチューリップに、絵の具で他の色を塗る人はいないと思います。神さまに造られたままで、十分美しいからです。人間も同じだと思いました。神さまに作らないた命は、神様が愛で輝かせてくれます。「私は愛されている」と確信し、ありのままの命の輝きを信じたいと思いました。


救いの核心

片柳神父は次のように書いています。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20170115/1484488915

聖霊による洗礼の恵みは、水による洗礼を受けたときだけでなく、わたしたちが自分の罪を認めて神の前に跪くたびごとに与えられます。そのたびごとに、神はわたしたちに優しく「あなたはわたしの愛する子」と語りかけてくださるのです。聖堂で跪くたびごとに、家で祈るたびごとに、わたしたちに与えられるのです。その言葉を聞くとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。だからこそ、わたしたちは、あらゆる困難や苦しみを乗り越えて、進んでゆくことができるのです。それこそが、キリスト教の救いの核心だと言っていいでしょう。


~耳をすますと、色々な声がきこえてきます。また自分自身の頭の中でも、様々なことを考えてしまいます。しかし人は、自分の生きている理由を探し、生きる価値を求めたりします。そんな私たちに、神様は「あなたはわたしの愛する子」とよびかけてくださいます。何か「できる」からではなく、ただ生きているだけで、「あなたがいてくれて私は嬉しい」とよびかけてくださるのです。愛される中で本来の自分を取り戻し、「私は私でだいじょうぶなんだ」と、安心できると思います。愛されるために特別なことは必要なく、ただ心を開いて信じるだけでよいと思いました。


虚しさはどこから

片柳神父は次のように書いています。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20150315/1426420103

心の虚しさは、大きな苦しみを生みます。何を食べても、何を着ても、どこへ行っても、心の底から喜びを感じることができなくなってしまうのです。生きる意味が感じられなくなり、生きる喜びや力はしだいに消えてゆきます。・・・。

 心に空洞ができると、その空洞から悪魔がわたしたちの心に入ってきます。そして、「お前の心が満たされないのは、まだ足りないからだ」と囁くのです。もっとたくさん物を手に入れば、偉くなれば、有名になれば幸せになれると、悪魔はわたしたちを誘惑します。


~たくさんの荷物を抱えたら、重たくてくたびれてしまうと思います。しかし、飾らないと自分には価値がないと思い、強い自分を無理をして演じてしまうことがあります。しかし、いくら自分を飾っても安心は生まれなく、「私の弱さはいつばれるんだろう」と逆に不安になってしまうと思います。安心は、「たとえ弱点がばれても、私を愛してくれる人がいるからだいじょうぶ」と思えることから来ると思います。背伸びして無理をするのではなく、自然体な自分を大切にしたいと思いました。


異なる役割

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2019/07/21/185823
イエスは、自分の言葉に耳を傾けたマリアが優れており、忙しく働いていたマルタが劣っていると言っているわけではありません。マルタにはマルタの使命があり、マリアにはマリアの使命がある。大切なのは、その使命を喜んで果たすことだ。イエスはマルタに、そのことを思い出させたかったのでしょう。自分の使命を感謝して受け取り、その使命を精一杯に果たす。そのような日々の中にこそ、わたしたちの本当の幸せがあるのです。忙しすぎて苦情を言いたくなったときには、自分には自分の使命があるということを思い出し、感謝してその使命を受け取りたいと思います。


~神様から与えられた使命は、一人ひとり違っていいと思いました。他人と競争するから、「私は誰の役にもたたない」と、自信を失ってしまうと思います。しかし、競争をやめたら、神様が自分に与えてくるたものが見つかると思います。つい、目立つものに目がいってしまいますが、目立たなくてもよいと思います。困っている人の辛さを覚えて神さまに祈ったり、世界の平和を祈ることも大切な使命の一つだと思います。神様から与えられた使命や、生きる意味がなかなか見いだせない場合は、神さまに祈り、聞いてみたらよいと思います。神様は教えてくださると思います。


神様の導き

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20180401/1522583064
わたしたちは、古い自分という墓の中に、自分自身を閉じ込めているのです。たとえば、「勝ち組、負け組」という言葉に象徴される、社会的に成功した人には生きる価値があり、成功しなかった人には生きる価値がないという考え方。この中に閉じこもって生きている人は、「失敗したら生きる価値がなくなる」という恐れや、「失敗ばかりの自分の人生には意味がない」という絶望の闇の中に生きています。闇の中で勝った、負けたに一喜一憂し、いつまでたっても本当の幸せにたどり着くことができない。自分で入り込んだ墓の闇のなかを、ぐるぐると歩き回っている。それが古い自分、思い込みの中に閉じこもっている自分です。
「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と心配ばかりしている人もまた、自分を恐れや不安という闇の中に閉じ込めています。この闇は、自分の力ではどうにもならないことを、自分の力でなんとかしようとするときに生まれてくる闇です。自分の力ではどうにもならないこと、寿命や健康、家族や友人の心などを自分の思いどおりにしようとするから、恐れや不安が生まれてくるのです。すべてを自分の思い通りにしようとして、恐れや不安の闇の中をぐるぐると歩き回っている状態。それが古い自分、不安や恐れの中に閉じこもっている自分です。


~失敗したらどうしよう、と心配することがあります。それは、失敗したらみんなから見捨てられる、と思っているからかもしれません。しかし、この世界にはゆるし、という優しさがあると思いました。どんなに失敗しても、ゆるされたら、またやり直すことができます。
また未来を計画することも大切ですが、絶対に「こうでなければならない」と思うと苦しくなると思います。計画どおりならなくても、「これも、神様の導きかもしれない」と思うと、心はホッとすると思います。慌てると呼吸も浅くなり息苦しくなってしまいます。ときには立ち止まって、マイペースで深呼吸しながらすごしてゆきたいです。


神さまに愛されて

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20171029/1509270406
ではどうしたら、神を愛することができるのでしょう。まずは、神さまの愛をしっかり受け止めることだと思います。神さまは、わたしたちが愛する前から、わたしたちを愛してくださっています。恩知らずで、わがままで、欠点だらけのわたしたちを、あるがままに受け入れ、愛してくださっているのです。神さまからの愛に気づくことから、神さまへの愛が始まります。神さまの愛に気づくとき、わたしたちは大きな喜びと感謝に満たされ、神を賛美せずにはいられなくなるのです。
「でも、どうしたら神の愛を感じられるのでしょう」とよく尋ねられます。神さまは目に見えないし、話しかけてもくれないからでしょう。ですが、神さまはわたしたちに、目に見える形で、いつもはっきり語りかけておられます。例えば、道端で咲いているコスモスの一輪を通してさえ、神さまはわたしたちに語りかけておられるのです。花の美しさに気づいて感動するとき、わたしたちの心に喜びが湧き上がってきます。それは、花の美しさを通して、神さまがわたしたちを励ましてくださったからなのです。花や鳥、この地上に存在するすべてのものは、神さまからのメッセージであり、わたしたち人間に宛てに愛情を込めて書かれたラブレターだと言っていいでしょう。大切なのは、その一つひとつに目を向け、耳を傾けて、しっかりメッセージを受け取ることです。神様の愛のメッセージに気づくとき、わたしたちは神を愛さずにいられなくなります。


~神様を愛されるには、よい子でないと愛されるのではなく、弱く欠点があっても愛されると思いました。つい愛されていることを忘れると、生き方が厳しくなって、何か素晴らしい人間にならないといけない、と思い込んでしまうことがあります。それは、「何かできないと、優秀でないといけない」と誤解しているからだと思います。神様様は、私たちが生きているだけで喜んでくださる方です。
花の美しさを通して、神様は私たちを励ましてくださっていると思いました。世界の遠くまで旅をしなくても、幸せは身近にあることを感じます。道端の花一輪をじっくり見つめると、実に見事な色をしています。神さまは花を美しく装ってくれるように、わたしたち一人ひとりも「あなたは美しい」とよびかけてくださり、大切に造ってくださいました。愛されるために神さまに与えられた自分の色を変える必要はなく、今のままで愛してくださると思います。


神のゆるし

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2019/05/05/184417
もし自分自身の弱さを知り、自分も神にゆるしてもらった罪人であることを忘れないならば、相手の話を聞くときの目線は、常に相手と同じ高さにあるはずです。何度も聞いて、絶対にしてはならないとよくわかっていながら、それでもつい同じ罪を犯してしまう。自分自身もそうだ、その気持ちはよく分かると相手の弱さにしっかり寄り添い、「それでも、それにも関わらず神さまはわたしたちをゆるしてくださるのです。その愛に信頼して、次の一歩を踏み出しましょう」と語りかけるのが、わたしたちに与えられた使命なのです。教会に求められているのは「強い指導者」ではなく、むしろ「弱い指導者」、自分の弱さを知って遜り、相手の痛みに寄り添う指導者だと言っていいでしょう。


~つい、上から目線で話してしまいます。しかし、同じ目線で立たないと、気持ちはわかりあえないと思いました。失敗や、自分の弱さを経験するのは、わたしたちが気持ちをわかりあえるようになるために、神様が与えてくださった宝物かもしれません。
また、ゆるされた体験も大切だと思います。大きな過ちを犯した方を慰めることができるのは、「私は弱いけれど、それでも神にゆるされた」と思える人だと思います。罪悪感で苦しんでいる方は、とても多いと思います。しかし神さまは、わたしたちに「あなたをゆるす」とよびかけてくださいます。神様のゆるしを疑うのではなく、まっすぐ信じ、互いにゆるしあい、助けあってゆきたいと思いました。


不安や欲望はどこから?

片柳神父は次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20180923/1537705226
では、どうしたら欲望を捨てられるのでしょうか。そのためには、神様の愛で満足することだと思います。「仲間の間で一番になる必要などまったくない。わたしは、イエス様のそばにいて、イエス様にお仕えできるだけで満足だ」と思えるようになれば、「偉くなりたい」という欲望は自然に消えます。もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれたなら、それはまだ、わたしたちが神様の愛で十分に満たされていない証拠。そんなときこそ、心を落ち着け、神様に向かって心を開きたいと思います。心が満たされたなら、乱れた欲望は消え去り、欲望同士が争い合うこともなくなって、この世界に平和が実現するでしょう。わたしたち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるように祈りましょう。


~「私は十分に神さまに愛されている」と思えないと、愛されるために様々なアピールをしてしまうと思います。他人に勝つことによってアピールしたり、強い自分をみせることによって、「これなら神さまは愛してるくださるだろう」と思い込んでしまうのです。しかし、体はぐったり疲れ、他人を思いやるゆとりをなくしてしまうのではないでしょうか。神さまは、弱く不完全であっても「あなたで良かった」と私たちを喜んでくださる方。心が満たされたなら、様々な欲望は消え去り、笑顔がふえると思いました。


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