片柳神父は、「自分自身と和解することから、相手との和解が始まります」というマザー・テレサの言葉を引用して次のように言います。
聖書の中に「隣人を、自分のように愛しなさい」という言葉がありますが、それはつまり、「人間は、自分自身を愛するようにしか隣人を愛することができない」ということです。人をゆるそうとする前に、まず自分自身をゆるしてあげましょう。
~※本を読んで思ったことです。
「私は得意なところがないけれど、このままの姿で神さまに赦されているんだ」と感じました。自己否定感がものすごく強い私に、「あなたはあなたで大丈夫だよ」と慰められてる感じがしてとても励まされました。生きる勇気がわいてくる本です。
片柳神父はマザー・テレサの
「不幸せな顔をしている人は、まだ何かにしがみついている人」の言葉を引用して、次のように書いています。
「自分の人生に多くを求めすきず、与えられたものに満足できる人は、どんな状況に置かれたとしても幸せな人生を送ることができるのです。不幸か幸せかを決めるのは、環境ではなく、わたしたちの心のあり方です。
「わたしとしたことが、これしかできなかった」と不満を抱えて生きるか、「これができれば、わたしとしては上出来だ」と満足して生きるか。それを決めるのはわたしたち自身なのです。・・・自分の思った通りにならない相手を、そして自分の思った通りにならない自分自身をゆるしてあげましょう。」
~※本を読んで思ったことです。
自分の生活を考えてみると、色々なものにしがみつき、「こうであらねばならない」と、自分に厳しい生き方をしている時ほど、しんどくなっているように感じました。片柳神父の言葉と出会い、ちょっと肩の力をぬくき、生きるのが楽になりました。なんでも自分の思い通りにしたいという要求は、人は神様のようになりたいのでしょうか。神さまになれないのになろうとするから無理がくるのかもしれません。人間は、欠点や弱さがあるから人間らしくて良いんですよね。自然体な自分ですごしてゆきたいです。
片柳神父はマザー・テレサの
「人を思いやるゆとりを失うほどに、自分を忙しくしてはいけません」の言葉を引用して、次のように言います。
「仕事が追われていると、自分自身への思いやりさえも忘れてしまうことがあります。体が動かないときに、「あれもしなければ、これもしなければ」とあせれば、心だけが空回りしてすり減ってしまいます。体が動かないほど疲れたら、自分の限界を素直に認めて休むこと。それが、長く働き続けるためのコツです」
~※本を読んで思ったことです。
私は自分の限界を認めたくても、認められない時がありました。「私にはなんでもできる」というプライドがあったのです。
しかし、強がった毎日では肩に力がはいり、緊張ぎみになってしまいました。わたしは完璧な人間はいないのに、スーパーマンになろうとしていたかもしれません。それは、人は空を飛べないのに、「私なら空を飛べる!」といっているようなものですね。
欠点や弱さはなくすものではなく、人間らしくさせ、化粧のように人を美しくさせるものかもしれません。無理をしないで、自分に優しくすることも大切だとおもいました。
「人間だし、まあこれくらいで上出来だ。疲れたからまた明日やろう」と、ゆったり構えたら心に新鮮な空気がはいってくるように感じました。ときには休む勇気をもって、ゆっくり歩んでゆきたいです。
片柳神父は次のように言います。
「自分は、自分であるというだけで価値があるという確信のことを、難しい言葉で「尊厳」と言います。家庭で養われた尊厳は、わたしたちが生きてゆくための揺るぎない土台であり、あらゆる困難を乗り越えてやくための底力です。」
~※本を読んで思ったことです。
私は自己肯定感が低くて、「私ってつまらない存在。私は、なんもできない」と考える癖があります。
しかし、「自分が自分であるだけで価値がある」と言われると嬉しくなりました。何かできることだけに価値をおくと、「何かしなければ」と焦ってしまうと思います。特別なことはできなくても、生きてるだけで満足してゆきたいです。
でも、自分を大切にするってなかなか難しいですよね。ゆっくり時間がかかってもいいから自分や仲間を大切にして、互いに支えあってすごしてゆきたいです。
片柳神父は「一番危険なのは、まるで自分が完全であるかのように話すことです」とマザー・テレサの言葉を引用して次のように言います。
「自分自身の弱さや欠点を思い出すとき、わたしたちの口からは、相手の苦しみに寄り添う癒しの言葉が生まれてきます。人を裁くことができるのは神さまだけ。わたしたちは、弱くて不完全な人間にすぎないということを忘れられないようにしましょう。」
~※本を読んで思ったことです。
人は自分の弱さを忘れるときほど怖いと思いました。しかし人には「自分は正しく、相手が間違っている」と裁いてしまう性質があると思います。教会は聖書の教えを語りますが、現実に人々が求めているのは説教ではなく、自分の気持ちに耳を傾けてくれる人だと思います。話すことも大切ですが、いつも聞くことを忘れずにゆきたいと思いました。
片柳神父は「相手の悪いところではなく、よいところを見るようにしなさい。」というマザー・テレサの言葉を引用して次のように言います。
相手の中だけでなく、自分自身の中によいところを見つけるものも大切なことです。わたしたちは、自分にできないことを見つけて落ち込むのは得意でも、自分にできることを見つけて自分をほめてあげるのは苦手です。ですが、人間には、誰しも必ず何かできることがあります。わたしたちは一人ひとり、神さまからこの世界で果たすべき役割と、その役割を果たすための力を与えられているからです。自分の欠点を見つけて責めるのではなく、自分のよいところを見つけ出し、自分をほめてあげましょう。
~※本を読んで思ったことです。
神様は必ず一人ひとりに美しいものを与えておられると感じました。つい、「私はなんにもできない」と言ってしまいがちです。もちろん謙遜に言うのは良いですが、それがエスカレートすると、「じぶんは何にもできないから駄目な存在」と自己否定に進んでしまうと思いました。人間は完璧ではないので、なにもかもはできないけれど、小さくても必ずできることがあると思います。「私は神様に大切に造られたんだ」と神さまを信頼して、歩んでゆきたいと思いました。