片柳弘史著『祈りへの旅立ち』(ドン・ボスコ社)


本を読んで

著者はマザー・テレサのすすめで神父になった片柳弘史神父です。本書は、マザー・テレサに導かれながら、心の深みを目指し旅をする本です。私が本書で特に好きな言葉は、マザーの

イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はないのですよ。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。

という言葉です。この言葉をもとに片柳神父は「イエスから愛されるために実際の自分より優れた者になる必要などまったくありません。イエスは、弱くて不完全なわたしたちを、ありのまま、無条件に愛してくださる方なのです。」と言っています。

これを読んだとき、私は他人に好かれるために、ちょっとだけ良い自分を演じている自分に気づきました。また、完璧主義を求め、「絶体にミスはゆるされない」と思っていました。失敗したら、みんなに見捨てられる、と恐れていました。片柳神父が書いた『こころの深呼吸』に次のように書いてあります。

隣人を自分のように愛しなさい」と言いますが、人間は、自分を愛するようにしか隣人を愛することができません。自分を厳しく裁いて駄目な人間だと決めつける人は、隣人も同じように厳しく裁いてしまうのです。まずは、自分を愛することから始めましょう。片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)

~人間は不思議なもので、自分に厳しい生き方をしていると、他人にも厳しい生き方をしてしまいがちです。いつも、自分より弱そうな人や、相手の弱点を探しながら、私は生きていました。しかし、本書を読んでから、ありのままの私でもいいんだと思い、自分にも優しくなり、他人にも優しくなったような気がします。肩の力も抜けて、等身大の自分になるにつれて、今まで暗い朝だったのが、「よし、今日も精いっぱい生きよう」と明るい朝になってきました。朝のコーヒーも、たまらなくおいしくなりました。本書は、慌てて読み急ぐのではなく、ゆっくり読んだら色々な発見があります。今まで5回以上は読み返していますが、そのたびに新しい発見があり、楽しい心の旅になっています。静かな場所でゆっくり楽しんでみてください。キリスト教の名著の一つだとわたしは思います。


沈黙

片柳神父は、「わたしは絶えず沈黙にかえります。舌を沈黙させればイエスに語りかけることができますし、目を沈黙させれば神が見えるようになります。」のマザーの言葉を引用して次のように書いています。

自分の将来のこと、だれかへの批判や復讐など、すべてを神さまの手に委ねてしまうのです。「わたしの将来をあなたの手に委ねます」、「あの人のことはあなたの手に委ねます」・・・そう祈っていくうちに、心のおしゃべりは1つひとつ消えていくことでしょう。すべてのことを神の手に委ねきったとき、わたしたちの心に本当の静寂、「魂の沈黙」が訪れます。沈黙した魂に響くのは、心の底から小さな声でわたしたちに語りかけるイエスの声だけです。

~自分の生活を考えてみたら、自分の思いどおりにすることで必死になっていると思いました。しかし、沈黙して神様に「あなたにお委ねします」と重荷をあずけるとき、人はリラックスできると思いました。毎日、自分を中心にして、自分の思いどおりに隣人を操作しようとするのは、相手に失礼だと思います。みんな違うからこそいいのであって、自由があると思います。「あなたはあなただから大切なんだよ」と、無条件に大切にしてあげたいと思いました。


空っぽの心

片柳神父は「神はいっぱいのものを満たすことができません。神は、空っぽのものだけを満たすことができるのです。本当の貧しさを、神は満たすことができるのです」というマザーの言葉を引用して、次のように言います。

自分の無力さを嘆く必要は少しもない。むしろ、無力で、何ももっていないからこそ神はあなたを恵みで満たすことができるというのです。・・・。

だから、もし自分が無力で、空っぽであることに気づいても悲しむことはない、とマザーは言うのです。もし自分の無力さを悲しむなら、それもわたしたちの心をふさぐ傲慢の一種かもしれません。なぜなら、その種の悲しみは、有能な者でありたい、自分はもっとできるはずだという傲慢な思い込みから生まれるからです。「なりたい、なれたはず、なのになれなかった。」無力の悲しみは、そのような心の動きから生まれてくるのです。

~神さまは必ずどんなときも、道を準備してくださると信頼したとき、安らぎで満たされると思いました。私にも「自分は強く、なんでも一人でできる」と背伸びしてしまうことがあります。しかし、強い自分を演じ続けていると、「自分の弱さがいつばれないだろうか」と心配をすると思います。まっすぐに自分の弱さを認め、他人の弱さにも優しさをそそぐとき、「助け合うって素晴らしい」と思えると思います。

両手にいつも、「あれがなければ、これもなければ」と欲張っていたら、神さまが美しい花束をくれても持つことができないと思います。荷物を減らして身軽になって、「神さまが一緒だから、なんとかなるさ」と神さまを信頼したいと思います。


執着心

片柳神父はマザーの「神が与えてくださるものは何でも笑顔で受け取り、取り去られるものは何でも笑顔で差し出しなさい」を引用して次のように言います。

神はわたしたちに本当に必要なものが何かを知っていて、わたしたちに必要なものを与え、必要のないものは取り去られます。・・・。マザーは、人間の不幸は何かへの執着から生まれるということを見抜いていたのです。

~地位や名誉にしがみついてしまうことがあります。自分の意見にこだわり、相手に「こうでなければならない」と、相手に変化を求めてしまうことがあります。しかし、自分の地位や名誉を必死に守ることで、疲れはててしまうと思います。執着することは、人間を不自由にします。むしろ、「なにもなくても、必要なものは神様が与えてくださる」と信頼していたなら、清々しい気持ちで毎日をおくれるのではないでしょうか。

また、自分の地位にこだわるのは、地位がないと自分の価値がなくなってしまうからである、と恐れているからだと思います。しかし、神様は空っぽになったとしても、地位がなくても、今ここにいる今日のあなたを愛してくださる方。自分のベストはつくして、後は神様に委ねてゆけますように。


神の愛

片柳神父はマザーの「『あなたを愛している』というイエスの言葉を聞かずに、たとえ1日たりとも、生きながらえることはできません。体が呼吸を必要とするくらいに、わたしたちの魂はその呼びかけを必要としているのです。」という言葉を引用して次のように言います。

深い祈りの中で、神さまは必ずわたしたちに「あなたを愛している」と語りかけてくださいます。

~キリスト教には祈りがあるが、私の祈りは一方的になってしまうことがあります。自信ないから、なんとか何事も上手くいったように、演技してバタバタしてしまいます。しかし、必死になればなるほど、「これもしなければ、あれもしなければ」と焦ってしまいます。

しかし、私が何か「できる」のではなく生きているだけで、神さまは私たちを喜んでくださると思いました。必死になって自分の価値を造りだす必要はないと思います。

コスモスはコスモスの花を咲かせます。当たり前のことですが、時に人は自分を嫌いになります。自分では愛されないと、他の人になろうとしてしまいます。しかし、神さまは1人ひとりを考えて作られたと思います。イエスの「あなたを愛している」というよびかけに、心を開きたいです。


祈ってもらう

片柳神父はマザー・テレサの「もし祈れないときにはどうするか、それは簡単なことです。わたしたちの心の中におられるイエスに祈ってもらえばいいのです。もし祈れないならば、その無力さをイエスに捧げなさい」の言葉を引用して、次のように言います。

祈れないときに起こりがちなのは、「なんてかして祈らなければ」とあせったり、「どうして祈れないんだろう」と不安を感じたりして、ますます祈れなくなるという悪循環です。自分の力でなんとかしようとしてあせる必要も、不安を感じる必要もない、ただ「イエスに祈っていただきなさい」とマザーは言います。


~体が疲れはて、ちっとも祈れない時があります。悲しみが深すぎて、言葉がでないときもあります。そんなときは、無力なありのままのじぶんをイエスに委ねたらよいと思いました。自分の力でなんでもらしなければと思うと、祈りも「祈らなければならない」と焦りの原因になってしまうと思いました。祈ってもらえるなんて、とっても幸せです。私たちを愛してくださるイエスの愛を信じ、早めに布団にはいって、おいしいものを食べ、ゆっくり休みたいと思います。


弱くても

片柳神父は次のように言います。

わたしたちは多くの場合、実際の自分よりもちょっとだけいい自分を「本当の自分」だと思い込み、周りの人からもそのような人間として受け入れられることで自分を受け入れているのです。

そのため、人生の痛みや過ちによって思い込みが崩され、自分が弱く、不完全な罪びとだということが自分の目にも、人びとの目にも明らかになると、とたんに自分を受け入れられなくなってしまいます。そして、「こんな自分を、イエスが愛しているなんてありえない」と思うようになっていくのです。


~背伸びした自分を演じ続けていると、くたびれてしまうと思いました。弱さを抱え、不完全であっても、「あなたがあなただから好き」と神様は言ってくださると思います。愛されるために、自分を変える必要はないと思います。しかし、人はどこかで、自分の弱さを隠そうとすると思います。それは、弱さをみやぶられたら見捨てられると思うからだと思います。しかし、それは誤解で、弱さも含めて神様は愛してくださいます。むしろ神様は弱いときにこそ、強く支えてくださると思います。その愛があるから、「私はどんな時も愛されている」と確信でき、助けあってすごしてゆけると思いました。


清らかさ

片柳神父は次のように言います。

「清い心」とは、思い込みや偏見、私利私欲などから清められた心、相手をありのままに受け入れられる心だと言っていいでしょう。


~人間は育った環境などによって、どうしても「こうであるべき」という独断をもちやすいと思います。自分の考えをもつことは大切ですが、それが強すぎると不自由になってきます。

他人に対しても、相手の良さではなく、つい欠点を探してしまいがちになります。自分を見つめるときも、長所ではなく短所ばかり考えてしまい、「自分はつまらない」と評価してしまいます。

しかし、思い込みや偏見を取り去ったなら、ありのままの相手がみえてきます。そして、「この方も神様に作られた最高傑作」と思えるようになります。つい、評価して相手や自分をみてしまう癖がついていますが、評価を手放して、自然体なまなざしてみるなら、相手の美しさがみえてくると思いました。神様は今日も「あなたが産まれてきてくれて、本当によかった」とよびかけてくださる方。神様の愛を信じて、清らかな目をもって、すごしてゆきたいです。


あなたで生きる

片柳神父はマザーテレサの「将来のことが心配なになったり、過去のことが悔やまれたりするのは、あなたがいまを全力で生きていないならでしは」を引用して、次のように言います。

イエスは、どんなときでも「いま」わたしたちと共におられます。イエスと出会う時はいま、この瞬間をおいてほかにどこにもないのです。


~全力で生きるとは、神様が「あなたでだいじょうぶだよ。あなたはあなたでいいんだよ」と愛してくれているから、可能だと思いました。人は時に「自分なんて、いてもいなくてもいいじゃないか」と落ち込んでしまいます。それは、神様の愛を忘れてしまうからだと思います。ベストはつくし、あとのことは神様の手に委ねてすごしてゆきたいと思います。自分の思い通りにならなくても、必ず神様は道を準備してくださいます。片柳神父は『やさしさの贈り物』で次のように言っています。


先のことが不安で夜も眠れない。そんなことでは体力が落ち、判断力も鈍って、ますます状況を悪化させてしまいます。どうにもならないことは神さまの手にゆだね、自分が今できることを精いっぱいやる。どんな場合も、それが一番の対応策です。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)


片柳弘史著『祈りへの旅立ち―マザー・テレサに導かれて』(ドン・ボスコ社)

https://amzn.asia/d/cxeY6ox(Amazon)