ヘンリ・ナウエンの言葉


目次

はじめに

1、ヘンリ・ナウエン著『静まりから生まれるもの』(太田和功訳、あめんどう刊)より


2、ナウエンの著作


3、ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)


4、ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに』

(あめんどう刊)


5、読書中。ヘンリ・ナウエン著

放蕩息子の帰郷(あめんどう刊)


6、ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)


7、ヘンリ・ナウエン著『イエスの御名で』(あめんどう刊)


はじめに

ヘンリ・ナウエン(1932~1996)とは

日本語wikipedia

・オランダ出身のカトリック司祭であり、元ハーバード大学教授です。プロテスタントの日本キリスト教団の出版局からも、ナウエンの書籍がだされているように、広く愛されている方だと思います。


※Amazonの、著者の紹介文です。

カトリック、プロテスタントの別なく、現代のキリスト者の霊性の教師として世界に広く認められ尊敬されている。カトリック司祭。 1932年、オランダ生まれ。 ノートルダム大学、イェール大学、ハーバード大学で教えたのち、亡くなるまでの約10年間、カナダのデイブレイクにあるラルシュ・コミュニティの牧者として、知的障害を負った人びとと生活を共にする。 1996年9月、突然の心臓発作で天に召された。


1、ヘンリ・ナウエン著『静まりから生まれるもの』(太田和功訳、あめんどう刊)より

(太字は本から引用させていただきました)

今日の世界では、わたしたちはみな、何かを成し遂げたいという強い願望を持っていることは明らかです。ある人は社会に劇的な変革をもたらしたいと思っています。・・・。

じつのところわたしたちはみな、自分自身の人生の意味や価値を、自分のこのような貢献度によって測ろうとしています。

・・・。

結果を重んずる現代の社会においては、誰かの役に立ちたいという願いは、その人の精神的な、また、自分の価値に対する自信を失わせて身動きができなくなる原因になります。

・・・。

いろいろな点で成功しているから、価値があるということになります。そして、わたしたちの業績、したことの結果を、自分の価値を決める物指しにしてしまえばしまうほど、わたしたちの心も魂も、いつもびくびくして暮らすようになります。

・・・。

いつか誰かが自分の虚像をはぎ取って、世の中で信じられているほど自分は頭が良くもなく、善良でもなく、愛されるに値する人間でないことが露わにされはしないかと、絶えず恐れながら暮らしているのです。

・・・。

自分が何者であるかをこの世の判断に任せてしまうと、絶えず不安につきまとわれることになります。それは、人から高い評価や評判を得たいという必要がいよいよ募るようになるからです。

・・・。

自分で何者であるかを証明するものとして、自分の活動だけにしがみついていると、わたしたちは物事に執着するようになり、自分を守るために身構えるようになります。

~※本を読んで思ったことです。

ナウエンは、自分の価値を決めるために、その評価する主体を他人にまかせている危険性について書いています。

そのため、他人から評価されるめに、何か社会で偉大な結果を残したり特別な結果を残すことに熱中してしまいます。しかし、人はいつかは自分の弱さが暴かれるのではないかと心配になります。弱い自分を知ったらみんなは離れていくだろうと、思っているからだと思います。それだと毎日はいつも他人の顔色をうかがって、ビクビクしてしまうとおもいました。

安らぎのある生活になるにはどうしたらよいのか、ナウエンは、イエスの静かな場所に行き、祈る姿のなかに解決をみます。


朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、

人里離れた所へ出て行き、

そこで祈っておられた。

マルコによる福音書 1:35 新共同訳

静まりの中でこそ、何を持っているかより、生きている自分の存在自体が大切であること、また、努力した結果より、わたしたち自身のほうがはるかに尊いことが分かってくるのです。・・・。独り静まると、自分の価値とは、どれほど人の役に立つかではないと気づくようになります。・・・。

もしあなたが、さまざまな活動やかかわりのまっただ中に、独りになる所を作り出すことができるなら、しだいに成功や失敗にこだわらなくなることでしょう。・・・。

わたしたちは、日々の生活を精いっぱい生きると同時に、ときには朝早くまだ暗いうちに起きて家をあとにし、独りきりになれる所に出て行くことを忘れないようにしようではありませんか。

~※本を読んで思ったことです。

ナウエンは、イエスが神と向き合う静かな時間をみています。

一人しんと静かな時間のなかで、何かできることに価値があるのではなく、命の存在自体がたいせつで、神と向き合う時間の大切さを指摘しています。

慌ただしさのなかで、わたしは他人の評価にふりまわされてしまいがちです。しかし、神さまは「あなたはあなたのままで大切な存在」と呼びかけてくださる方。その愛の声に、耳をすましてゆきたいと思いました。


2、ナウエンの著作

著作はたくさんありますが、

以下のような書籍などがあります。


ヘンリ・ナウエン著

傷ついた癒し人(ナウエン・セレクション)』(日本キリスト教団出版局刊)

Amazonの解説より

~ナウエンは、孤独で苦しむ人間のうめきに耳を傾けながら、孤独が負い目ではなく、実は、他者との交わりの接点になり、他者の痛みを癒やす創造的な源にもなりうると語りかけています。ナウエンは、はっきりと書いています。「キリスト者の生き方は孤独を取り除きはしない。孤独を尊い贈り物として守り、大切にするのだ」と。だからこそ、〈孤独〉とどうやって共生していくのかが、鍵なのです。(中略)私たちは誰もが、孤独の疼きを抱えています。そして本書においてナウエンによる魂のもてなしを経験することで、孤独の傷を力に変えられて、私たちは皆それぞれに傷ついた癒やし人になることができます。本書は、ナウエンの物語というだけではなく、私たち皆の物語でもあるのです。 酒井陽介(イエズス会司祭)


ヘンリ・ナウエン著『死を友として生きる (ナウエン・セレクション)』(日本キリスト教団出版局)

Amazonの解説より

~死は、忌避すべきものではなく、「神に愛された者」として成長していくための大切なステップなのだ。聖書の視点で死とケアを考える『最大の贈り物』と、交通事故の経験を踏まえて死の意味を思いめぐらす『鏡の向こう』の2作を収録。『鏡の向こう』は本邦初訳。


ナウエンと読む福音書』(あめんどう刊)

Amazonの紹介文から

キリスト教スピリチュアリティの指導者、著作家として世界的に知られ、多くの愛読者をもつヘンリ・ナウエンが、イエスの生涯、その誕生、宣教活動、受難、復活、聖霊降臨までの福音書の世界を案内。多くの著作から選りすぐった黙想で織りなすイエスのストーリーは、その独自の霊的な洞察を通して、思いもしなかった新鮮な福音の世界に導いてくれる。ナウエンの生涯に重要な霊感を与えたレンブラントの素描を併せて収録。


3、ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

◼️1月

1月10日、自己否定を乗り越える

霊的な生活における大きな危険の一つに、自分を受け入れられないということがあります。「私のことを本当に知ったなら、人々は私を愛してはくれないだろう」と言う時、私たちは闇に向かう道を選んでいるのです。しばしば自らを軽んずることは美徳であると信じこまされており、それは謙遜と呼ばれています。しかし実は、謙遜は自らを軽んずることとは反対のことなのです。それは、神の目には私たちは貴重であり、私たちの存在のすべてが贈り物そのものであるということを感謝をもって認めることです。自己否定を乗り越えて成長するためには、あなたは神のいとしい子どもであると呼びかける声に聞き従う勇気を持たねばなりません。そして私たちは、常にこの真理に従って生きると決意しなければなりません。

ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)より

~※本を読んでの感想です。

謙遜とは、「私はつまらないんだ」と自分の価値を自分で決めることではないと思いました。なぜなら、自分の価値は人間が決めるのではなく、神さまが決めると思うからです。

神さまは、私たちを大切に作り、「あなたは愛しい存在」とよびかけてくださる方。ただ生きているだけでも、あなたがあなたであるだけで、喜んでくださる方。かみさまの声に耳をすまして、「私は愛されている」と信じてすごしてゆきたいです。


1月13日、静かな、小さな愛の声

多くの声が私たちの注意を促します。「おまえがよい人間だということを証明しろ」と言う声があります。別の声は「恥ずかしいと思え」とささやきます。また「誰もおまえのことなんか本当には気にかけちゃいない」と言う声もあれば、「成功して、有名になって権力を手に入れろ」と言う声もあ ります。けれども、これらの非常にやかましい声の陰で、静かな、小さな声がこうささやいています。 「あなたは私の愛する者、私の心にかなう者」と。それは、私たちが最も聞くことを必要としている 声です。しかしその声を聞くには、特別な努力を要します。孤独、沈黙、そして聞こうとする強い決意を必要とします。

それが、祈りです。それは、私たちを「私の愛する者」と呼んでいる声に耳を傾けることです。

ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)より

~※本を読んでの感想です。

生きていると様々な声がきこえます。有名になりなさいとか、社会で成功しなさいとか、様々な声に人は追われています。その声に追われて、人はヘトヘトになっていると思います。

しかし耳をすませば、かみさまの声がきこえてきます。それは、社会で成功しなくても、生きているだけで「あなたは大切な存在」と受け止めてくれる声です。

もし疲れたとき、自分は社会の価値観の声に惑わされていないか、チェックしたいと思いました。


1月17日、自分自身であれ

今自分のいるところとは別のところにいたい、あるいは今の自分ではなく別の誰かでありたい、と思うことがよくあります。私たちは、常に他の人々と自分を比較してしまいます。そして「どうしてあの人たちのように金持ちじゃないのだろう、知的じゃないのだろう、質素じゃないのだろう、親切 ではないのだろう、聖くないのだろう」と考えます。このような比較をすると、私たちは後ろめたいものを感じたり、恥ずかしく思ったり、あるいは嫉妬することもあります。神が私たちを召し出そう としておられるところは、今自分のいるところ、そして今の自分自身に隠されています。このことを 理解することはとても大切です。私たちは一人ひとりかけがえのない人間です。一人ひとりが、誰も代わることのできない人生を生きるようにと呼びかけられています。一人ひとりが、「今、ここ」という具体的な状況において、自らの人生を実現するよう召されているのです。

他の人々より優れているか劣っているかに心を捕らわれていては、私たちが何に呼ばれているのか は分かりません。私たちは、するべきことをするのに十分な恵みを受けています。あなた自身でいま しょう。

ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)より

~※本を読んでの感想です。

社会は常に変化したり、成長したりすることが求められているように感じます。また家庭においても、妻は夫に、夫は妻に、親は子供にたえず、「もっともっと、しっかりしなさい。成長しなさい」と変化を求め、いまの相手に理想を求めていると、お互いに疲れはててしまうと思います。

「いまのあなたで良かった」と、いまの相手を喜び、自分を喜ぶことを大切にしたいと、私は思いました。



◼️2月

2月5日、神の無条件の愛

神の愛について私たちは何を語れるでしょうか。一つ確かなのは、神の愛は無条件であるというこ です。 「も……なら、あなたを愛する」と神は言われません。神の心には「もし」がないのです。 私たちの言葉や行い、見かけや知性、成功や人望、こういったものと私たちに対する神の愛は関係がありません。この神の愛は、私たちが生まれる前から存在し、死んだ後も存在し続けます。 神の愛は永遠から永遠に到り、この時間の中で起こるいかなる出来事や状況にも束縛されることはありません。 では、神は私たちの言葉や行いを全く気にかけていないのでしょうか。そうではありません。 もし神が気にかけていないなら、神の愛は現実のものではなかったでしょう。無条件に愛するとは、無関心に愛するということではありません。神は私たちと交わりを持つことを望んでおられ、私たちがその 神に愛をもって応えることを欲しておられます。

恐れることなく神との親しい交わりに入りましょう。私たちは愛され、さらにずっと愛され続けるということを信じて。

ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

社会では、あなたは「~できたから素晴らしい」と、よく条件をつけます。そのために、なにかできなければ自分は大切ではない、と焦ってしまいます。

しかし、それだと絶えず、自分が素晴らしいことをしないと評価されない、と不安になると思います。

しかし、真実の愛は、あなたがいるだけで素晴らしい、と呼びかけてくださると思います。もし焦ってしまったら一度立ち止まって、自分が絶えず「~しなければ」と焦っていないか、チェックしたいと思います。


2月12日、私たちを養う言葉

日頃の会話の中で、私たちは起こったことや今していること、これからしようとしていることなどについて話します。「何があったの」と言い合いながら、日常生活の細かなことまでを互いに話したり聞いたりしようとしますが、むしろ私たちはもっと別のことを聞きたがっているのではないでしょうか。本当は「君のこと今日考えてたよ」とか「あなたがいなくて寂しかった」「あなたがいてくれたら」とか「本当に君が好きだよ」という言葉を聞きたいのだと思います。こういったことをいつも簡単に言えるわけではありませんが、このような言葉こそ、私たちのお互いの絆を深めてくれます。 何らかの形で確かに「愛している」と告げるのは福音をもたらすことにほかなりません。 「そんなことはとうに知ってたよ。 そんなこと再び言う必要なんかない」と答える人は誰もいないでしょう。 愛の言葉は、パンのようなものです。 それを私たちは毎日、繰り返し必要としています。愛と 肯定の言葉は、私たちを内側から生かしてくれます。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

人はだれもが、自分を大切に思ってくれたら喜びます。人は言葉によって、「愛されている」ことを確認しようとします。

私自身は、その言葉を精神科の病院に入院しているときに、イエス様から聞こえてきました。イエスはたしかに、「あなたを愛している」と言っていました。あるひとは、「そんなのは、あなたの妄想だ。神なんて、いるわけがない」と言うかもしれません。しかし、私は希望をもって生きようと思いました。退院してからも私はねるまえや、朝おきるときに、ときどき「私は神さまに愛されている」と思うと、不思議に心は安らぎで満たされています。



◼️3月

3月16日、柔軟さの長所

木は、野に生える葦(※あし)と比べると強そうです。けれども嵐が来ると、根こそぎにされてしまいます。それに対して葦は、風に吹かれて前や後ろに揺らぎながらも、嵐が静まった後、再び立ち上がります。 柔軟さは大きな長所です。自分の見方や考え方に固執し、今置かれている位置にしがみついて、他の人の考えや行いによって少しずつ影響を受けることを拒むなら、私たちは簡単に壊れてしまいます。 野の葦のようにというのは、優柔不断であるということではありません。それは、大地にしっかり根を下ろして、一時の風にちょっと揺らぐことです。直面している問題について、ユーモアを欠き、神経を張り詰め、頑固になって硬直してしまうと、私たちは自らの魂をそこない、とげとげしくなって しまいます。しっかりと根を下ろし、柔軟でありましょう。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

人は「こうでなければならない」と思うとつらくなると思います。たとえば、失敗してはいけないとか、いつも強くなければならないとかです。

失敗を通して人は成長するのに、失敗をおそれたら何もできなくなると思います。また、弱さがあるから助けあえるのであって、弱さは人と人を結ぶ大切なものです。

ときには、「こうでなければならない」という囚われを疑って、新しい空気を心にいれたら、新しい希望がわいてくると思います。


3月20日、市場の中の静かな場所

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編4・10、口語訳) 。これは忙しい生活をするにあたり覚えておくとよい言葉です。私たちは、静けさを騒がしい世界と対比させて考えるかもしれません。 でも、仕事をしていたり、教えていたり、建設作業をしていたり、音楽を演奏していたり、会議中であっても、内なる静けさを保つことは可能です。

「市場」の喧騒の中にあって、静かな場所を心の中に保つことは大切です。この静かな場所とは、 神が住み、私たちに語りかけられるところです。そこはまた、私たちが忙しい日々の中で出会うすべての人に、癒しとなるような方法で語りかけることができるところでもあります。そのような静かな場所がないと、空回りの状態になってしまうでしょう。追い立てられるようにやみくもに、あちらこちら走り回ることになるでしょう。けれども、静けさを心に保っていると、私たちが考え、語り、行うすべてのことにおいて、神がやさしい導き手となってくださいます。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

絶えず騒がしい中にいると、社会の価値観の声だけに、飲み込まれそうになります。それは、「いつも成功しなければ」とか「他人より強くあれ」と、常になにかを求め、安らぎがなくなると思います。

しかし聖書をひらけば、静けさの大切さがかかれています。それは、たとえ欠点があっても神さまは私たちを愛してくださり、どんな自分も受け止めてくれる世界です。

人は、そのような静けさのなかでリラックスして、希望をもって生きる地からを育まれると思います。


3月21日、私たちが聖なる存在であること

私たちは自分自身の友だちでしょうか。自分自身のありのままの姿を愛しているでしょうか。 これはとても重要な問いです。というのも、自分自身の友となることなしに、他の人々とよい友情を育てることはできないからです。

それではどうしたら私たちは自分自身の友となることができるでしょうか。私たちは、自分自身の真実を認めることから始めねばなりません。私たちはすばらしくもあり限界もある、富んでいると同時に貧しくもある。寛大でありながら自分自身の安全を気にしている。そしてこれらすべてを超え私たちは魂を持った人間であり、神から出た花です。私たちの真実を認めるということは、私たちが聖なる存在であることを、十分ではないとしても、認めることです。私たちの存在の最も深い部分は、精神や感情の支配が及ばないところにあります。 しかし、私たちの魂を、愛の神が受け入れてくださることを信じる時、私たちは自分自身の友となり、他の人々に手を差し伸べ、愛の交わりへと導くことができるでしょう。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

完璧な人間はいなく、だれもが弱さをもっていると思いました。強さだけを求めようとしますが、弱さもあるから人間らしく、助けあってゆけると思います。

「弱ければ見捨てられる」と心配する必要はないと思います。弱さを抱えているのが人間であり、弱さは魅力にもなります。

弱さもあり強さもある、まるごとの自分を神さまは愛してくださる方。かみさまの無条件の愛を信頼してすごしてゆきたいです。



◼️4月

4月3日、受けることの大切さ

しばしば受けることは与えることよりも難しいと感じられることがあります。与えることはとても重要です。洞察を与える、希望を与える、勇気を与える、忠告を与える、支えを与える、金を与える、そして何よりも、私たち自身を与える。与えることなしに兄弟姉妹であることは不可能です。

しかし受けることも同じように大切です。というのも受けることで、与えようとする人に、その人には与えることのできる賜物があると知らせることになるからです。「ありがとう、あなたは私に希望を与えてくれた」、「ありがとう、あなたは私に生きる理由を与えてくれた」、「ありがとう、あなたは私の夢を実現させてくれた」と言うことで、私たちは与えてくれた人に、そのかけがえのない尊い賜物を気づかせることになります。時によっては受ける人の見方を通して初めて、与える人が自分の 物を発見することもあるのです。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

受けることや、助けられることは、みっともないと思い、頑なに他人のサポートを拒否してしまうことがあります。

しかしその裏には、自分は強くなんでもできる、というプライドがあるかもしれません。プライドは、他人からのサポートを拒否します。

しかし、現実の自分をみれば、お米や電気や水道も、たくさんの方の働きによって与えられていると思います。自分の限界を謙虚に認め、「いつもありがとう」と他人の優しさに感謝してすごしてゆきたいです。


4月5日、神に深く根ざす

高く伸びる木には、深い根があります。 深い根を持たずにかなりの高さに到るのは危険です。 聖フランチェスコやガンジー、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアといったこの世界の偉大な指導者たちはみな、自分の知名度の高さや影響力や権力を謙虚に受け止め、生きることのできた人々でした。 それは彼らが深く霊的な根を地に下ろしていたからです。

深い根を持っていないと、私たちがどういう人間であるかを他の人々によって簡単に決めさせてし まいます。けれども、私たちが世評の良さにしがみついていると、自分が本当はどんな人間であるか という感覚を失ってしまうかもしれません。他の人が私をどう思っているかということに気を取られ ているなら、いかに私たちが底の浅い人間であるかが明らかになります。そうなると足下には、私たちがしっかりと立てる地面がほとんどありません。私たちは、他の人によるお世辞やほめ言葉により かかって生きるしかなくなります。 神の愛に深く根ざした人は、人からの賞識に執着することなく、 その讃を受け止められます。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

他人の評価を土台にすると、いつも他人の声が気になります。人間関係やSNSでも、いつも評価をきにしたすぎたら、1日の気分さえも他人によって影響されてしまいます。

しかし、神さまの評価はかわりません。神さまは弱さも強さも、あなたがあなたであるだけで愛してくださる方。聖書には、


キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

コロサイの信徒への手紙 2:7 新共同訳


と、書いています。キリストに根をおろすとは、まずなによりも大切なのは、「あなたは愛されている大切な存在」とよびかけてくださる、神の声に耳をすますことだと私は思います。今日もこの変わらない神の愛に根をおろし、たすけあってゆきたいと思いました。


◼️5月

◼️6月
6月10日 存在する
私たちは何者でしょう。私のしていることが私? 人々が私について言っていることが私? 私の持っている力が私? 社会では、しばしばそのように考えられているようです。しかし、私たちに与 られたイエスの霊によって、霊的な次元における私たちの本当のアイデンティティーが明らかにさ れます。私たちは成功や名声の世界に属するのではなく、神のものであるということが重要によって明らかにされます。 世界は私たちを恐怖によって奴隷にします。聖霊は私たちを奴隷の状態から解放し、本当の関わりへと復帰させてくださいます。 それが、パウロの言わんとしていることなのです。 「あなたがたは、人として再び恐れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッパ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8・15)。
私たちは何者でしょう。私たちは神の愛する息子であり娘です!ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)
~※本を読んでの感想です。
自分とは誰なのかわかると、ずっと心が落ちつくと思います。社会では、能力や持っている資格によって「あなたとは、こういう存在だ」と、評価されます。しかし、それをずっと気にしていたら、毎日くたびれてしまうと思います。
一番大切になり、土台となるのは、私たちの命を作られた神さまからの評価だと思います。神さまは、私たちがどんなに欠点があっても「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」と呼びかけてくださる方。それを第一に心に抱いて、神に愛されていることを、信じてゆきたいと思います。

6月28日、下へ向かって

私たちの社会は、前進したいなら、上に向かって進まねばならないという示唆に満ちています。頂点を極める、脚光を浴びる、記録を破る。これらは人々の注目を集め、新聞の一面を飾り、金と名声という報酬を私たちに与えてくれます。

イエスの生き方は根本的に違っていました。それは上へ向かうのではなく、下へ向かうものでした。底辺を目指し、舞台のセットの後ろに隠れ、最後尾を運び続けることでした。イエスの生き方は、なぜ選ぶに値するのでしょうか。それがみ国に、そして永遠のいのちに判る道だからです。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

社会では、「優秀でなければ愛されない」という価値観によって、常に私たちは焦らさせられているように感じます。心には、いつも「何かできなければ他人から見捨てられる」という不安があると思います。しかし、その価値観ははたして正しいのでしょうか。

目立たなくても脇役でも、それでもいいのではないでしょうか。なぜなら、神さまはどんなに弱くても、私たちを喜んでくださるからです。他人の評価によって、自分の価値が決まるわけではないと思います。「私はどんなときも、神さまに愛されている」と思うとき、心には安心が広がっていくと思います。



◼️7月

7月11日、受ける時、与える時

いつ人に注意を払い、いつ自分に関心を持ってもらったらよいかを知ることは、大切です。見返りを何も期待せず、与えて、与えて、与え続けようとすることがよくあります。それが心の広さの表れであり、英雄的な行為であるとさえ思うかもしれません。けれどもそれは、「人の助けはいらない。ただあげたいんだ」という傲慢な態度とさして変わりません。受けることなく与え続けていると、 すぐに燃え尽きてしまいます。私たちが喜んで与え続けられるのは、自分の肉体的、感情的、精神的、 霊的な必要に対して思いやりに満ちた関心を払う時だけです。

与える時と受ける時があります。健康な生活を送るためには、どちらも等しく必要です。ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)

~※本を読んで思ったことです。

「自分は一人でなんでもできるから、他人の助けを受ける必要はない」と、強がってしまうときがあります。たしかに、助けられるより助けるほうが、気分がよいかもしれません。しかし、一人でなにもかも抱えたら、やがて体力や精神的にゆとりをなくし、他人を思いやるゆとりをなくしてしまうのではないでしょうか。

時には自分の限界を謙虚に認め、他人のサポートをかりたり、支えられることは大切なことだと思います。疲れはてなにもかもがしんどいときは、ただ神様の愛に甘えて、「私は愛されている」と信じることができますように。


7月14日、祝福される

イエスは祝福された方です。ヨルダン川で洗礼を受けられた時、天から声がして言いました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1・11)。これが生涯を通してイエスを支えた賞讃であれ非難であれ——イエスはご自分に与えられた祝福をしっかり離さずにおられました。ご自分が神に深く愛されたみ子であることを常に心に留めていました。

イエスは、その祝福を私たちと分かち合うためにこの世に来られました。「あなたはわたしの愛する息子、あなたはわたしの愛する娘、わたしの心に適う者」と私たちにも語りかける声を聴くことができるよう、私たちの耳を開くために、イエスは来られました。その声を聴き、その声を信じ、心 留めることができるなら、特に暗く苦しい時にそうするならば、私たちは神の祝福された子として生きることができますし、人々とこの祝福を分かち合う力を見つけられるはずです。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

イエスは自分が「神に愛されている大切な存在」であることを、確信していました。人々から批判され、侮辱されたとしても、イエスにはなにも影響しませんでした。それは、なによりも自分が神に愛されていることを、なによりも優先したからです。

私たちも、他人によって、さまざまな評価をされることがあります。人間であるかぎり、やはり他人の評価を気にしてしまいます。しかし、なによりもイエスから「あなたは愛されている大切な存在」という呼びかけを大切にするなら、身軽になって自由に、生活できるのではないでしょうか。



◼️8月

8月16日 静まりの中で神にしがみつく

神と共に静まっていると、自分がいかにいろいろなものに頼っているかということにすぐに気づき ます。私たちは日常生活に多くある、気をそらせるものがなくなると、不安になって緊張してしまいます。誰も話しかけてくれなかったり、訪ねてくれなかったり、誰も私たちの助けを必要としなかったりすると、自分が取るに足らない人間であるかのように感じます。そして、自分は役に立つ人間だろうか、価値があるのだろうか、重要な人間なのだろうか、と考え始めます。私たちは、不安に満ちた静まりから早く抜け出し、自分が「ひとかどの人間だ」と安心するために再び忙しい生活に戻ろうとしがちです。けれども、それが誘惑なのです。というのも、私たちをひとかどの人間にするのは、 人々がどう思うかではなく、神が私たちを永遠の愛で愛してくださることによるからです。

真の自分であり続けるためには、静まりの中で神にしがみついていることです。神は私たちを本当の自分にしてくださる唯一の方だからです。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

他人の評価ばかりを気にしていると、なにか凄いことができないと他人から認められない、と思ってしまいます。

一人でいる時間を無駄と感じ、他人と群れていたり、誰かと一緒にいないと不安になります。しかし、誰からも評価されなくても神さまは、「あなたがいてくれるだけで嬉しい」と喜んでくださる方。目立たなくても、誰からも見られていなくても、なにもできなくても、神さまはあなたの存在を喜んでくださる方。

「私は今のままで愛されている」と知ったときに、人は自分を否定しないで、「私でいいんだ」と自分を肯定できるのではないでしょうか。今夜もねるまえに、誰もいなくても、「私は愛されいる」と安心して眠りにつくことができますように。


◼️9月

9月2日 善をもって悪に勝つ

使徒パウロがローマの人々に宛てて書いています。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈り なさい。・・・悪に悪を返さず・・・復讐せず・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・14―21)。これらの言葉には、 霊的な生活の中心に響いてくるものがあります。これらの言葉は、死ではなくいのちを選ぶとはどういうことか、呪いではなく祝福を選ぶとはどういうことかを明らかにしています。しかし、ここで私たちに求められているのは、人間の本性に反することです。他の人々にするようにと私たちに求めら れているのは、神が私たちのためにしてくださったことそのものであると、全身で知るようになることです。それが分かるようになって初めて、私たちはパウロの言葉に従って生きることができます。ヘンリ・ナウエン著『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)

~※本を読んでの感想です。

神さまは、私たちがどんなに欠点を抱えていても愛してくださる方。もしそれを信頼していなければ、「しっかりしてないと、神さまに見捨てられる」という不安に陥ってしまうと思います。

しかし、私たち側になにか「できる」から愛されるのではなく、私たちの存在じたいが神さまの喜びにいると信頼できたとき、人は安心して、神さまと一緒に自分の道を歩むことができるのではないでしょうか。

自分にゆとりがないと、他人にも厳しくなり、他人の欠点を探し指をさすようなことをしてしまいます。しかし、ふしぎに欠点がある自分をゆるせた方は、他人にもゆとりを持って接するようになれると思います。「私は、失敗しても神さまはやりなおす力を与えてくださる」と信頼して、仲間と助けあってゆけますように。



4、ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに』(あめんどう刊)

※2023年3月に読みました。

(太字は本から引用させていただきました)


生産性が重視される現代社会では、「忙しくし、何かで心が占められていることこそ本当の生き方だ」とまで露骨に言わないにしても、「それが主流の生き方だ」という認識が、自他を計るモノサシになっています。23頁

~※本を読んで思ったことです。

忙しいことが、なにかのステータスになっている気がします。しかし、忙しくさせて、不安を忘れようと思うときが、私にはあります。


絶え間なく不慮の出来事に備えているため、今という時に心から信頼することができません。私たちのエネルギーのかなりが、これらの恐るべき、心を奪うものに費やされていると言っても決して過言ではないでしょう。・・・。

現代社会では、何かをすることで占められているばかりか、あれこれ心配することも、強く奨励されています。25頁

~※本を読んで思ったことです。

「もし・・・になったらどうしよう」と考えて、外にでられないときがあります。一人でなにもかも抱え込もうとすると不安は強くなるので、なるべく一人で全てを抱えこまないようにしたいです。


頭も心もいろいろなことで目いっぱいでありながら、「人々の抱いている期待や自分への期待に応えられるだろうか?」と案じているので、心の深いところで「空しさ」を感じています。たくさんのことで忙しく、多くの心配事を抱えていながら、充実感を得ることができませんし、心に平安はなく、新にくつろぐこともできません。しなければならないことで緑まで目いっぱいの生活の裏で、底知れない虚無感を感じています。27-28頁

~※本を読んで思ったことです。

「なにかできないと、価値がない」と自分にいってしまいます。私は一般就労していたてきら仕事がおぼえられず職場で注意されてばかりいました。「あなたは人の半分しか仕事ができない」と上司にいわれました。わたしは、「他人の足手まといだ。自分はつまらない人間だ」と劣等感だらけでした。

しかし、聖書や片柳神父の書籍をよんで、「なにかできなくても、私は私であるだけで価値がある」と感じ、嬉しい気持ちになりました。今はまだ劣等感がありますが、自己を肯定できるようにリハビリ中です。


「共に生きていくための欠かせない一員として、自分という存在が必要とされている」と理解さえできれば、人はかなりの肉体的、精神的苦痛に耐えることができるものです。32頁

※本を読んで思ったことです。

「あなたがいてくれるだけで嬉しい」と、存在自体を喜んでくれると、心があたたかくなる気がします。

私はいつも「なにかしなければ」と焦ってしまいます。それは「・・・できたら素晴らしい」と誉められます。そのため、なにかしなければ、と他人といると緊張感して、背伸びしてしまいます。

しかし、背伸びをしなくても「あなたはあなただからすばらしい」と誉められたら、安心します。

「・・・だからあなたは素晴らしい」という誉め言葉は、同時に「・・・でなければあなたは素晴らしくない」というメッセージを伝えてしまいます。「あなたは、あなただというだけで素晴らしい」それが最高の誉め言葉です。

片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊) より


真に重要なことは、心を傾けて聖霊に聴き、それが喜ばしいところであろうと、

苦痛を伴う所であろうと、導かれるところへ従順におもむくことです。59頁

~※本を読んで思ったことです。

自分を守るために一方的に相手に主張してしまう時があります。ゆとりがないと、聞くことを忘れてしまいます。

宗教は、自分の立場を守るために、聞くことを忘れやすいと思いました。多宗教から学ぶ姿勢は大切だと、わたしは思いました。


従順 (obedient) という語は、ラテン語で「注意して聴く」を意味するアウディレ (audire)という語から生じたものです。そして霊的な修練は、無秩序な生き方から徐々に従 順な生き方へ、騒々しい思い煩いばかりの生き方から、神の声に聴き入り、その導きに従う自由なスペースを心に設ける生き方へと移るために必要なのです。69頁

※本を読んで思ったことです。

自分の考え方にこだわり、神さまは「あなたをゆるす」と言っても、「私は弱いのでゆるされない、つまらない存在です」と反論してしまうときがあります。

しかし、それは謙遜にみえますが、実は自分の考え方にこだわっているので、傲慢な態度かもしれないと思いました。

神さまが、「あなたをゆるす。あなたは大切な存在」と呼んでくださるなら、神さまの十字架のゆるしを信じてゆきたいと思いました。


パウロが言うように、信仰は聴くことに始まります。私たちは、 他の人が語る御言葉を聴く必要があります。生まれ育った所、たどってきた人生、 心理傾向、また信仰の持ち方も異なった人びとが集うとき、異なった人たちの口から語られる同じ御言葉に耳を傾けることは、その御言葉にあって守られているという気づきを与え、共通のオープンさとありのままの姿勢を私たちの内に創り出してくれます。86頁

~※本を読んで思ったことです。

「こうでなければならない」と思い込むと、違いを排除してしまいます。

赤も白も黄色のチューリップも色は違っても、どの色の花もきれいだと思います。違いをみとめられるためには、「わたしでも私で大丈夫なんだ」と思える、安心感が大切だと思いました。「欠点があっても、わたしは神様に愛されている」と神の愛を信頼し、すごしてゆきたいです。


『すべて新たに』を読むのは、幸せな時間のでした。


5、ヘンリ・ナウエン著『放蕩息子の帰郷』(あめんどう刊)

読書中です。


Amazonの紹介文から

『放蕩息子の帰郷(あめんどう刊)

~本書は、レンブラントの絵を瞑想することを通して、著者自らの人生に照明を当てるだけでなく、そこに共通する人間の失われた姿と回復へ向けての葛藤、その回復を待ち望んでやまない神の愛のドラマをダイナミックに描いている。人間の孤独、落胆、嫉妬、怒りなど、わたしたちになじみ深い感情に触れながら、神に立ち返ること、神との和解の霊的意味、父としての神の愛、神に愛される子としてのわたしたちの在り方の新たな発見へと導く。ナウエンの多くの著作の中でも、最高傑作に数えられる待望の書。


6、ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)

Amazonの紹介文より

『わが家への道』(あめんどう刊)

~好評『待ち望むということ』『まことの力への道』を改訂し、新たに二つの短編、『イエスのもたらす平和』『生きること死ぬこと』を加えて一冊にまとめたもの。私たちのたどる霊的生活を、四つの異なった角度から光を当てる珠玉のエッセー集。// 私たちがいま生きている文化は、人間の価値を成功や生産性の度合いで計ります。……しかし、私たちは年を取るにつれて、このような点で成功する可能性がだんだん減っていくことを心得ておくことは重要です。……あえて弱さというものを、実を豊かに結ぶ絶好の機会と見ようではありませんか。霊的生活における豊かな実りとは、愛にかかわることです。そしてこの豊かな実りは、成功や生産性とはきわめて異質なものです。(本文より)


(※太字は本から引用させていただきました。)

声はほかにもたくさんある。大声で、約束をいっぱい並べたてた、とても魅惑的な声 がある。それらは、次のように言う。

「出て行って、自分には価値があることを証明せよ」。イエスは「あなたを愛している」と呼びかける声を聞いたすぐあとに荒れ野に導かれ、その声を聞いた。その声はイエスに、成功し、有名になり、力を手に入れ、自分が愛されるに値する者であ ることを証明せよと迫った。

これと同じ声に、わたしもなじんでいる。それらは、いつもそこにあり、わたしの善いところにつねに文句をつけ、わたしの存在価値を疑わせる。固い決意で努力をし、懸命に働いてそれを得るのでなければ、決して愛されることはないと忠告してくる。それらの声は、わたしが愛される価値があることを、自分にも他人にも明らかにせよ、と求めてくる。そして、他人から受け入れられるためには、何でもできることをせよ、とわたしを追い立て続ける。それらは、愛はまったくの無償の贈り物であることを大声で否定する。 「あなたを愛している」と呼びかける声への信頼を失うたびに、わたしは家出をし、心からわたしがする愛を勝ち取るために、ありとあらゆる手段を提供しようと申し出る声について行ってしまう。

およそ耳が聞こえるようになったときから、わたしはずっとその声を聞いてきた。それ以来、 その響きはわたしの脳裏から消えることはなかった。それらは両親、友人、教師、同僚から聞こ えてきたが、とくに(いまもってそうだが)、わたしを取り巻くマスメディアを通してやってきた。 

「あなたがいい子であることを示しなさい。友人より上であるのはいいことだ! 成績はどうな ってる? ちゃんと卒業できるだろうね! あなたなら一人でうまくやっていける! きちんとした人脈はあるかい?あんな人たちと友だちでいいのか? この多くのトロフィーで、あなたがどんなに優秀な選手だったか分かるよ! 弱みを見せるな、つけこまれるぞ! 老後の準備はできているか? 何も生み出さないなら、だれからも相手にされなくなるぞ! 死んだら、それ でおしまいだ!」

「愛する子よ」と呼びかける声に耳を傾けるかぎりは、これらの疑いや忠告は何の害もおよぼさない。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)54ー55頁

~※本を読んで思ったことです。

じっとしていられなく、いつも「なにかしなければ」と焦ってしまうことがあります。疲れていても休めずに「あれもしなければ、これもしなければ」と心がざわつきます。

しかし、生まれたての赤ちゃんは何もすることはできませんが、存在自体が大切です。

心が落ちつかないときは、神さまの前で静まり「あなたがいるだけで大切な存在」とよびかけてくださるイエスの声に、耳を傾けたいと思いました。


わたしたちが積み木を手に持ち、

「これはわたしのだ」

「これはあなたのだ」と言い張っている限り、小さなパワーゲームは、だんだんと大きなパワーゲームにエスカレートし、憎しみや暴力、そして戦争へとわたしたちを導くでしょう。

わたしたちの人生を下から見るなら、そこがどこであろうと、恐れや不安から、 わたしたちは積み木をつかもうとします。しかし、あえて積み木を手放し、手を空にし、まことの避け所であり、まことの砦である方に向かって手を差し伸べるなら、 わたしたちの貧しさは、上からの力を受け取る窓口となります。そして、そこから受ける力は、わたしたちを癒し、わたしたちにとって、またこの世界にとっても、まことの祝福の力となるでしょう。ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)45頁

~※本を読んで思ったことです。

なにかを持つと、かえって不自由になるときがあります。マザー・テレサは、三着のサリーしか服がなかったときいています。しかし、生活はシンプルになり、物に支配されないので、新鮮な空気が心にはいってくると思いました。

心が充たされないときは、「あれもなければ、これもなければ幸せになれない」と思ってしまうときがあります。

一度じっくり静まって、自分の心の声に耳をすましてみたいと思いました。

見方をかえれば、幸せは遠くにあるのではなく、もうすでにあり、そばにあることを気づくときがあります。


みなが賜物、悩み、強さ、

弱さを持っています。

ヘンリ・ナウエン著

『わが家への道』(あめんどう刊)51頁

~※本を読んで思ったことです。

だれもが神さまの手によって大切につくられました。強さだけではなく、弱さもだれもが抱えています。弱さがあるから、他人と助けあっていきてゆけます。

つい、愛されるために、誰か他の人になろうとすることがあります。しかし、自分を否定することほど辛いことはありません。おやから「あなたが、良い子にしてたら愛してあげよう」と言われて育ったなら、もしかして、親の期待にこたえようと必死かもしれません。

しかし、真実の愛はたとえ期待にこたえられなくても、「あなたがいるだけで十分しあわせ」と呼び掛けてくださると思います。親の愛にも人間であるかぎり完璧な親はいません。そんなときは、「あなたがあなたであるだけで大切」というイエスの声に耳をすまし、等身大の自分ですごしてゆけますように。

(※親との関係でつらいときは、

加藤諦三さんの本をおすすめします。)


わたしの過去の人生の大半は、何かをすることに価値があるという考えによって築かれてきました。

小中学校でも、高校でも、大学でもそうでした。 学位を取り、賞をとり、キャリアを築きました。まったくのところ、わずかの成功、わずかの名声、わずかの権力を身につけて孤独な頂点に上り詰めるために、多くの人と闘ってきました。 

しかし、ゆっくりと重そうに呼吸しているアダムの傍らに座ると、自分の人生の旅路は何と乱暴だったことか、という思いが湧いてきます。 上へ上へと昇る歩みは、 他の人よりましでいたいという欲望に満ちているため、敵対心と競争心にあふれ、 抑えがたい衝動と妄想にとりつかれ、疑い、嫉妬、敵意や復讐心が目につくもので した。

・・・。

アダムは黙ったままで、わたしに語り続けます。「平和とは、基本的には行ないではない。

まず何よりも、存在の技なのです」と。

わたしにはアダムの正しいことが分かります。

 なぜなら、アダムと共にいるようになってから四ヶ月が過ぎ、いままで体験したことのない内なるくつろぎ、居心地のよさの芽生えを見出しつつあるからです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、59ー60頁

※アダムについては53頁に書かれています。

彼は・・・食べることも、衣服を着ることも脱ぐこともできず、一人で歩けず、介助がなければ食べることもままなりません。

~※本を読んで思ったことです。

ナウエンは、アダムという障がいを抱えた方と暮らすときに、なにかを行うことより、存在自体が大切なことを教えられていきます。ナウエンは、アダムによって安らぎをとりもどし、慰めをうけていきます。

ナウエンが語っているように、彼はたえず「何かをすることに価値がある」と信じていきてきました。休んでいても、たえず後ろから「なまけるな。もっとがんばれ。なにかできないと、見棄てられるぞ」という圧力を感じていたのではないでしょうか。

アダムは、ナウエンに、人は生きているだけで大切なことを気づかせてくれました。相手に「もっともっと、こうしてほしい」と求めるのではなく、「今のあなたで十分すてきだよ」と、お互いの今を受け止めあいたいと思いました。


待つ」という態度は、わたしたちの実際生活の中でたいして重んじられていませ ん。

「待つ」ということは、楽しみなことでも、素晴らしい喜びや心躍らせる経験でもありません。事実、今日ほとんどの人々は、「待つ」という態度は時間の無駄だと考えています。

 それは、次のように絶えずわたしたちに呼びかける時代精神と関係するでしょう。「とにかく動け! 何かしなさい! 自分がひとかどの人間であることを示しなさい! じっと座って待っているだけではだめだ!」

ですから、わたしたちを含め多くの人にとって待つということは、いま立ってい る点と、やがて行き着こうとする地点の間にある無味乾燥な場所にほかなりませ ん。わたしたちは、そうした所を好みません。むしろ、そこから抜け出て何か手応えのあることをしたいと願います。

わたしたちが生きているこの時代は、歴史的に見ても、待つことをとても困難にしています。それは、人々が「恐れ」にとりつかれているからです。今日、わたしたちを取り囲む風潮の中で、もっとも支配的な感情の一つは、漠とした「恐れ」です。わたしたちは現代に生きる人間の一人として、「恐れ」にとりつかれている人々です。ーー自分と異なる人を怖がり、自分の中に湧き起こる不快な思いや感情を怖がり、まだ見ぬ将来がどうなるかを恐れているのです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、86ー87頁

~※本を読んで思ったことです。

スピードが求められるなかで、インスタントで便利な食品が使いやすい時代になりました。

しかし、ゆっくり待つ時間が無駄な時間になってしまうと、人間関係でも、「ゆっくり成長なんて言ってないで、今すぐに実績をだしなさい」と、圧力をかけてしまわないか心配です。

人の成長は多様であり、ゆっくりな方もいます。しかし大人が、背中から「もっとはやく!好き嫌いはだめ!はやく覚えなさい!」と焦らすと、子供は混乱してしまうと思います。

子供にスピードを求める大人は、自分自身もなにかに追われて、たえず不安を抱えているように思います。また、根深い自己評価の低さで「自分はもっとしっかりして、仕事もスピードをあげないと評価されない」と、誤解しているように思います。

自然の植物をみると、種をまいてゆっくり育ちます。もし、生活で慌てているなら、自然や植物園や近くの公園の花壇にでかけてみたいと思いました。

神さまは、亀にはかめのスピードで、人間にもひとりひとりのペースを与えられたと思います。

もし、慌てて呼吸がみだれていたら、一度立ち止まり、「マイペースでせいいっぱいやったら、それで十分だ。できないことは助けあってゆけばいいだろう」とゆったり構えて、仲間と助けあってゆきたいと思いました。


こうした受け身的な人物は聖書のどこにも見当たりません。待っている人々は、とても積極的に待っています。 彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちがいまいるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。もし、種は蒔かれており、そこに何ごとかがすでに始まっ ているとわたしたちが確信して待つなら、待ち望む姿勢はおのずと異なったものとなります。

積極的に待つとは、わたしたちのいるところで何か大切なことが起こっていることを確信しつつ、そこに留まることを願い、いまのこの時を大切にすることをも意味します。 待ち望む人とは、いまこの瞬間を大切にし、この時に自分を置きます。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、93頁

~※本を読んで思ったことです。


マリアの信頼はとても深かったので、その待つ姿勢は、すべての可能性に開かれたものでした。そして、それを自分で操作しようとは思いませんでした。ですから、天使の言葉を注意深く聞いて彼女は信じ、これから起ころうとしていることに信頼を置くことができました。 わたしが自分の人生の歩みから学んだことは、自分の願望を手放し、そのかわりに神に希望を置いて生きることがとても重要であるということです。そしていま学 びつつある真実は、自分のちっぽけで、浅薄な願いを手放し、わたしの人生は神の 目から見て尊く、意味があると信じて神を信頼するとき、何かしらまったく新しい、 自分の期待を超えた大切なことが起こるということです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、97頁

~※本を読んで思ったことです。


声がしました。信じがたい声が。 

「あなたはわたしの愛する子。 

わたしの心に適う 者」。

それは、ヨルダン川でイエスが耳にし、自分が神に愛されている存在であり、 神の心に適う者であることを確信した声です。イエスは悪魔の前に出たときでさえ、 愛されている者としてご自身の人生を生きました。悪霊はイエスに言いました。「石をパンに変え、自分が何者であるかを示し、神に愛されていることを証明せよ。

華々しくふるまい、神殿から身を投げて御使いに助けてもらい、愛されている者であることを証明せよ。そうすればニュースやテレビに取り上げられ、あなたがいかに素晴らしい者であるかを誰もが見ることができる! つねに主導権をとれる力と 影響力を持っていることを示し、愛されている者であることを証明せよ」

しかし、イエスはこう答えました。「わたしは何も証明する必要はない。わたしは愛されている。ヨルダン川でそう呼ぶ声を聞いたのだから。わたしは愛されている 者であると分かっている。 わたしは次の言葉を聞いた。

「あなたはわたしの愛する子、

 わたしの心に適う者』」。

イエスはこの言葉を信じ、ご自身が何者であるかを知っておられました。その生のすべてを、神に愛されている者として生きました。彼の霊には、神の愛が染みわたっていました。そして、決然として死を受け入れたのは、神のみもとへ行くこ とと、間もなく友人たちに愛の聖霊を送ることを知っておられたからです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、127ー128頁

~※本を読んで思ったことです。


わたしたちがいま生きている文化は、人間の価値を成功や生産性の度合いで計ります。「肩書きは何ですか? 収入はどのくらいですか? 何人の友達がいますか? 業績は?どのくらい忙しいのですか? あなたの子どもは何をしていますか?」 などと尋ねます。 しかし、 わたしたちは年を取るにつれて、このような点で成功する可能性がだんだん減っていくことを心得ておくことは重要です。わたしたちは肩書きを失い、友達、業績、多くのことをする能力を失っていき、何といっても、だ んだんと弱くなり、もろくなり、依存的になっていくことを感じます。

ですから、成功という観点から自分のことを見続けるなら、わたしたちの置かれた状況は誉められたものではありません! 現代の文化の強い影響のせいで、脆弱さを肯定的に見るということは、とてつもなく大きなチャレンジです。たとえそうであっても、わたしたちはあえて弱さというものを、実を豊かに結ぶ絶好の機会と 見ようではありませんか。霊的生活における豊かな実りとは、愛にかかわることです。そしてこの豊かな実りは、成功や生産性とはきわめて異質なものです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、140頁

~※本を読んで思ったことです。


7、ヘンリ・ナウエン著『イエスの御名で』 (あめんどう刊)より

◼️2人で

とりわけイエスが、12弟子を2人1組で遣わされた意味がどこにあったかを思いやるべきです(マルコ6・7)。私たちは、自分たちが2人ずつ遣わされているということを忘れています。自分一人では、良い知らせを携えて行くことはできません。私たちは共同体において、いっしょに福音を宣べ伝えるようにと召されています。ここに神の知恵が込められているのです。

ヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』(あめんどう刊)、59ページより

~※本を読んで思ったことです。

神父や牧師に期待をしすぎてしまうことがあります。とりわけ『聖職者(神父や牧師に)につまずいたから教会にはいかない』とあるクリスチャンがいっていました。しかし聖職者も人間であると私は思います。 イエスは弟子たちを、1人では伝道の旅にいかせませんでした。一人の時に怪我をしたら、途方にくれてします。イエスは人の限界をよく知っていたと、私は思います。相手に期待をしすぎたらクリスチャンライフは疲れてしまうと思います。 たとえ期待にこたえれなくても、「あなたで良かった」と今のあなたを神さまは喜んでくれる方。

私も口下手で、内向的な性格で自分が嫌いになることがあります。もっと社交的になって、イエスの愛を誰かに伝えられたら、と思うことがあります。しかしどんなに背伸びしても、できることや、できないことがあることも私は感じます。しかし、私のままでも、「あなたで大丈夫」とイエスがよびかけてくださる神の愛を信頼しています。

なにもかもできることはできなくても、2人で助けあえば互いにすばらしいなにかを作りあげたり、工夫をできたりできると思います。「クリスチャンらしくならなければ」と心配する必要はなく、神さまは「あなたはあなたのままで、あなたらしいクリスチャンでいいんだよ」と、私はよびかけていると思いました。



◼️聞く

クリスチャンの指導者は、観想的な祈りの訓練によって、繰り返し繰り返し愛の声に耳を傾けねばなりません。どのような問題が目の前にあろうと、イエスとの愛の交わりに、それを処理する知恵と勇気を見いだす必要があります。

ヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』(あめんどう刊)、48ページより

~※本を読んで思ったことです。

自分の意見に固執してしまうと、相手を理解するよりも、支配しようとする性質が人にはあると思います。

柔軟さを持つには、まずイエスの声をきくことだと私は思います。イエスは、私たちがどんなときも「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方。神に愛されている自分をしったとき、人は教えると同時に、相手からも教えられるゆとりを取り戻せると思います。教えるあまりになると、相手の個性も変えようとして、くたびれてしまうと思います。相手を変える必要はなく、お互いに神さまに作られたままを認めあい、助けあってゆきたいと思いました。



◼️個人主義

今日の教会をよく見ると、牧師や司祭の間に、個人主義が浸透しているのを 容易に認めることができます。他人に誇れるような幅広い技能のレパートリー をもっている人は、あまり多くないでしょう。しかし、もし少しでも誇示でき るチャンスがあれば、それは自分一人でしなければならないと、多くの人は思 っています。皆さんの多くは、綱渡りに失敗した者のように自分を見ているか もしれません。大勢の人々の心を惹きつける力がなかった、多くの回心者を生 み出すことができなかった、魅力的な儀式を演出することができなかった、自 分が望んだようには老若男女すべての人から人気を得ることができなかった、思った通りに人々の必要に応えることができなかった――というように。

ヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』(あめんどう刊)、57ページより

~※本を読んで思ったことです。

ナウエンは、教会が聖職者のものになっていないか、指摘しています。カリスマな聖職者の教会を求めて、ひたすら旅をすることもあるかもしれません。

しかし、その裏でたくさんのことを期待されて心が疲れている、聖職者やクリスチャンがいるのかもしれません。クリスチャンという理想像をつくりあげ、みなそれに向かって背伸びしてしまいます。しかし、そのクリスチャンライフは、わたしは疲れはててしまうと思います。

理想像より大切なのは、神さまがつくられた多様な個性であり、異なる素晴らしさだと私は思います。世界にはたくさんな、花がある、色があります。鳥たちの鳴き声も多様性にあふれています。神様は、その人をその人として造られ、誰もが最高傑作だと思います。

「こうであるべき」という枠から自由になるとき、信仰の喜びはわいてくると思います。教会は聖職者がスーパースターとなって導くのではなく、ひとりひとりが神さまは必要とされ大切な存在とされていると私は思います。


は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、

大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

新約聖書

ローマ12章3〜5節、新改訳2017



◼️権力

イエスが受けた第三の誘惑が何であったかをご存じでしょう。それは権力への誘惑でした。「私は、この世の国々とその栄華を、すべてあなたに与えよう」と、悪魔はイエスに言いました。・・・

キリスト教の歴史の最大の皮肉の一つは、指導者たちがそのイエスの御名を 語りながら、権力の誘惑、すなわち政治的、軍事的、経済的、あるいは道徳的、 霊的能力という力の誘惑に、絶えず負けてきたということです。権力を福音宣 教の有効な手段であると考える誘惑は、あらゆる誘惑の中でも最強のものです。・・・

神を愛するより自分が神になるほうが、人々を愛するより人々を支配するほうが、生命を愛するより生命を所有するほうが、ずっとやさしいように思えるからです。

ヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』(あめんどう刊)、78ページ~81ページ

~※本を読んで思ったことです。

教会の歴史において、力によって征服してきた時代があります(異端裁判など)。私は痛切に反省いたします。

それは、イエスが対立した権力でした。

イエスの生涯が記録されている福音書のなかに、イエスの宣教のはじめに40日にわたる荒れ野での誘惑がしるされています。イエスは、悪魔から3つの誘惑をうけます。マタイ福音書には次のようにかかれています。

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、

こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

新約聖書

マタイ4章 8〜10節、新改訳2017


イエスは自分がなにもかも支配し、他人を操作することを選びませんでした。むしろ神さまの考えを優先し、仕える道をえらびました。仕えるとは教えることもあり、教えられることもあり、互いに支えあうことだと思います。

学校では教えるものと、教えられるものがいます。福祉には、助けるものと助けられるものがいます。しかしどれも一方通行になってしまうと、相手を愛することから離れ、従わないものを否定してしたいがちになる危険性があります。

ナウエンは

神を愛するより自分が神になるほうが、人々を愛するより人々を支配するほうが」と書いています。人間には自分が神になって、相手を操作し、思いどおりにしたい性質が、どこかにあるかもしれません。

相手が自分と異なる意見をいったものなら「そういう考えも大切だよね」と聞くゆとりはなく、「こうであるべき」と押し付けてしまうことがあります。

子供がそのような環境にいたら「自分の気持ちをいったら尾やから愛されないから、じぶんの気持ちは隠しておこう」と、感情にふたをしてしまうかもしれません。しかし、親が「こうであるべき」を手放せば子供は安心を覚えて、のびのびと成長してゆくのではないでしょうか。

様々な価値観が反乱して、情報がながれてゆきます。そんなときはゆっくり座ってイエスの言葉に耳を傾けたいです。イエスの言葉に耳をすますとき、私はざわざわした心配から静かな安心へ、少しずつかわっているのを感じます。



◼️イエスの声

静かで、優しい神の愛の御声は、この世のかん高い、騒々しい雑音によっ て、私たちの耳に届きにくくなっています。クリスチャン指導者はまさに、 人々がその御声を聞きとり、力と慰めを受け取ることができるよう助けるため に召されているのです。ヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』(あめんどう刊)、93ページ

~※本を読んで思ったことです。

自分の強さや能力をアピールして、それらを自慢して話してしまうことが私にはあります。いかに自分が優れた人間かをアピールしてしまうのです。

しかしナウエンは、イエスの声をみんなが聞こえるようにすることが大切である、と書いています。イエスの声は静かなので、騒音のなかでけされてしまいそうになります。しかし、静かな場所で耳をすますとき、あなたがあなたであることを喜んでくださる、愛のよびかけが聞こえてきます。

なにもかも疲れ、生きる気力すら失いそうになるときも、「あなたがいてくれて本当に嬉しい」と喜んでくださる方がいれば、生きる希望がわいてくるのではないでしょうか。

私はできないことが多く、自分が嫌いになるときがあります。そういう場合は、一度静まって、私はイエスのよびかけに耳をすますことにしています。

今日もイエスは、「あなたでよかった」とあなたを喜んでくださる方。そのよびかけを胸に抱いて、互いに助けあってゆきたいです。