片柳弘史著『祈るように生きる』(ドン・ボスコ社)を読んで



聞く

片柳神父は、マザー・テレサの「マリアはわたしたちに沈黙を教えてくれます。沈黙とは、すべてを心に納めて思い巡らすことです。神のみ旨(むね)を、軽々しく判断しないことです」という言葉をもとに、次のように言います。

何か思いがけない出来事が起こったとき、渡したちはその出来事の意味を性急に判断してしまいがちです。意味がわからないままにしておいたり、意味がわかるまで待つことができず、「こんなことばかげている。意味がない」と思って脇に押しやったり、「もうだめだ。わたしの人生は終わりだ」などと悲観的に受け止めたりしてしまうのです。でも、出来事に込められた神のメッセージは、そんなに簡単に判断できるものではありません。大切なのは、軽々しく判断しようとする心の声を沈黙させること。出来事を起こったらまま、あるがままに受け入れ、「心に納めて思い巡らす」ことなのです。

~生活の中でいつも、自分の思い通りにならないと、イライラしている自分を感じました。自分は神さまでないのに、「こうであるべき」と思いこんでしまい、殻の中にとじこもっている気がしました。心を広くしたら、「こうでなくてもよい」ことに気付き、道は一本道ではないことに気づきました。何事も慌てて判断しないで、一つ一つは神さまから与えられたものとして喜び、辛いこともあるがままに受け入れてゆきたいと思うようになりました。



話す

片柳神父はマザー・テレサの「一番危険なのは、自分が不完全であることを忘れ、完全な人間であるかのように話しはじめることです。」という言葉をもとに、次のように言います。

自分が完全な人間であるかのように話すということは、つまり自分を神の位置に置いて人を裁くということに他なりません。

~「自分が正しく、相手は間違っている」と思うことが多いと感じました。自分は変わらなくてよく、相手にだけ「あなたは変わってほしい」と、つい求めてしまいます。すると、相手も疲れてしまうと思います。

その原因は、自分を受け入れられないから、他人も受け入れられないと思いました。神さまは、弱く不完全な私たちでさえ愛してくださっています。そのことを忘れたとき、自分に「もっとしっかりしなきゃ」と追い詰めてしまい、余裕がなくなると思いました。やはり、まず「私は神さまに愛されている」という安心感をもち、自分を受け入れることは必要だと思います。自分が弱いことを忘れず、他人の弱さを愛して、支えあってゆきたいと思いました。



見る

片柳神父はマザー・テレサさの「お互いの欠点に驚いたり、先入観をもったりしてはいけません。むしろ、互いのよいところを見るようにしなさい。わたしたちは、誰もが神の似姿なのです」を引用して、次のように言います。

相手の中に「神の子」を見るきらきらしたまなざしには、相手の中に眠っている「神の子」としての尊厳を目覚めさせる力があります。相手の中に「神の子」を見るきらきらしたまなざしには、憎しみや不安、恐れなどによって醜く変えられてしまったその人の姿を、本当の姿、喜びや希望に満たされて輝く「神の子」としての戻す力があるのです。相手の悪いところではなく、隠されたよいところを見ることによって、わたしたちは相手を変えることさえできるのです。

~どんな人の中にも神さまの最高傑作として見る大切さを感じました。私は、相手の欠点をまっさきに探しがちです。しかし、一人ひとりには必ず神さまが作られた美しいところがあると思います。


「だれもが神ご自身の子どもです。

・・・どこでもわたしたちは兄弟姉妹です。」『愛-日本人へのメッセージ』(三保元訳、女子パウロ会編)

~マザー・テレサは、「一人ひとりは神さまの子ども」として見つめています。イエスは弟子たちに教えた祈りの中で、「天の父よ」と呼びかけなさい、と教えています。


だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。

マタイによる福音書 6:9 口語訳

~イエスが弟子たちに教えた祈りを、「主の祈り」と呼びます。この祈りは、クリスチャンだけが祈れる特権はなく、すべての人が自由に祈ることができると思います。すべての人が神さまを「天のお父さん」と呼びかけてよく、そのとき祈っている人は、神さまの子どもになっているのです。

もちろん、クリスチャンだけが神さまの子どもという考え方もありますが、私はマザー・テレサのように、クリスチャンでなくても一人ひとりを神さまの子どもとして見つめ、生きてゆきたいと思います。

神さまは私たちが弱くても、優しい目でいつも見つめてくださる方。そのまなざしがあるから、「私は神さまに愛されている、神さまの子ども」と確信できると思います。自分の弱さを必死に隠すのではなく、弱いところも神さまに見せるのを恐れないで、生きてゆきたいです。なぜなら、神さまは弱さも強さも含めて、私たち一人ひとりを愛しているからです。



ほほ笑む

片柳神父はマザー・テレサさの「イエスを愛する喜びを、いつも心にもっていなさい。その喜びを、あなたが出会うすべての人と分かち合いなさい。」を引用して、次のように言います。

自分の全存在が、そっくりそのまま、ありのまま受け入れられた。それ以上に嬉しいことがこの世にあるでしょうか。マザーの笑顔の一番深いところには、いつもその喜びがあったのです。その喜びは、「あなたも、神様から愛された大切な存在なのですよ」というメッセージを相手に伝える、心からの笑顔となってマザーからあふれ出しました。

~私は神さまの愛をどこまで信じているのか、考えてみました。私は実は神さまの愛を半分は信じて、半分は疑っているのではないか、と思ったのです。私の心のどこかに、「良い子にしてないと、神さまは愛してくれない」と思う心があります。しかしマザーは、神さまの愛をまっすぐ信じていたからこそ、その喜びが困っている人への愛として、あふれたのだと思います。中途半端に、「私は愛されているのだろうか?」と心配するよりも、「私は私のままで、神さまは愛してくださる」と信じられたら、喜びが大きくなると思いました。

良い子になりたくても、人間であるかぎり、過ちを犯してしまいます。何気なく言った言葉が心のナイフとして、相手を傷つけてしまうことがあります。そんな弱い自分に絶望しそうになる時があります。

しかし、神さまはそんな私たちを、イエスの前で悔い改めたとき、十字架のゆるしによってゆるしてくださいます。神さまのゆるしがあるから、人は罪悪感に押し潰されることなく、生きてゆくことができると思います。イエスの十字架は自分のものと信じ、歩んでゆきたいと思いました。


泣く

片柳神父はマザー・テレサさの「もし何かにがっかりするなら、それは傲慢のしるしです。あなたは、まだ自分の力で何かができると思っているのです。」を引用して、次のように言います。

神を信じている人にとって、自分の力でどうにもならないということは、当然のことにすぎないからです。神を信じている人は、「もうだめだ。自分の力ではどうにもならない」と感じるとき、「いまこそ、あなたの力をお与えください」と祈ります。謙遜な心ですべてを神に委ねる人は、自分の力ではもうどうにもならないと思ったとしても、最後まで希望を失うことはないのです。

~私は自分の力に頼りすぎていることに反省させられました。よく私は「なんでうまくいかないんだ」と、嘆くときがあります。またプライドも高くて仲間に「手伝ってください」とも、なかなか言えません。最後はだいたい失敗に終わります。私は自分の力に頼りすぎているのです。自分の力に頼りすぎるのは、「神さまの助けなんていらない」とする傲慢な態度だと思うようになりました。肩の力を抜き、神さまの助けをかりて、自然体な自分で生きてゆきたいです。


呼吸する

片柳神父はマザー・テレサの「イエスが『あなたを愛している』と言うのを聞かずに、たとえ1日たりとも生き永らえることはできません。体が呼吸を必要とするくらいに、わたしたちの魂はその呼びかけを必要としているのです。」を引用しています。

~マザーは、いつもイエスから、「あなたを愛している」という言葉を聞いて生活していたんだな、と思いました。私はときどき、神さまの愛を疑ってしまうことがあります。「こんな弱い私は、さすがに愛されないのではないか」と心配になるのです。しかし、マザー・テレサは神さまの愛を呼吸するのと同じくらい普通に感じとっていました。それは、神さまを幼子のように信頼していたからだと思います。私もあまり複雑にかんがえずに、「私はイエスに愛されている」と素直な心で受け止められるように、幼子のような心になりたいです。

聖書には、次のように書いてあります。

わたしは魂を沈黙させます。 

わたしの魂を

幼子のように 

母の胸にいる幼子のようにします

詩編 131:2 新共同訳


着る

片柳神父は「マザー・テレサが3枚のサリーしか持っていなかったという話は有名です。普段着として着るための2枚のサリーと、誓願式や特別なお祝いのときに晴れ着として着る1枚のサリー、合わせて3枚のサリーしか持っていなかったのです。」と書いています。

~実際より自分を良くみせるために、服を買うことが多いと感じました。しかし、わずかなもので満足できたら、幸せだと思いました。一度引っ越ししたことがありますが、荷物を整理してみると、本当に必要な本や物はわずかであることに気づきます。「あれもなければ、これもなければ」と欲張ってしまいますが、生活で必要なものは、わずかであることに気づかされます。かえって荷物がおおくなると不自由になり、物に縛られるようになると思います。マザーのように、3枚のサリーで満足できたらどんなに生活が軽くなり、楽になることでしょうか。私もいまあるものを大切に、荷物を整理して生活していきたいと思いました。


持つ

片柳神父はマザー・テレサの「物を持てば持つほど、わたしたちは物によって縛られ、わずかな物しか与えることができなくなります」を引用し、次のように言います。

「なくてはならないもの」がたくさんあるというのは、不幸なことです。なぜなら、それらが一つでもなくなれば、わたしたちは幸せに生きることができなくなってしまうからです。「なくてはならないもの」がたくさんある人は、いつもそれを失うことを恐れながら生きなければなりません。

~私はここを読んで、物によって支配され窒息してしまうようなこわさを感じました。物によって、心も体も押し潰されてしまうように感じました。しかし、物を誰かと分かち合うときは、喜びにあふれると思います。マザー・テレサは、「神から何かを与えられたなら、それは分かち合うためであって、自分のものにするためではありません。」と言ってますが、確かに食事もみんなと食べると楽しくなりますね。


聖書には次のように書いてあります。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マルコによる福音書 2:16‭-‬17 口語訳

~イエスは、当時嫌われていた宗教の掟を上手に守られない人たちを大切にしました。イエスにとっては、たとえ弱く不完全であっても、一人ひとりは大切な存在であったと思います。イエスは、わたしたちが何ができるかとか、何を持っているかで評価をしないと思います。ただ、わたしたちが生きているだけで、喜んでくださると思います。神さまはあなたが「いるだけ」で喜んでくださる方です。物がありすぎても、人の心は幸せになれないと思います。物に支配されず、荷物を軽くして生きてゆきたいです。


育てる

片柳神父は次のように書いています。

競争社会と呼ばれる厳しい社会では、なにができるか、何の役に立つかによって人間の価値が決められてしまうからです。「人間としての尊厳」をもつとは、そのような社会にあって、周りの人がどう思うかとはまったく関係なく、「自分は自分だというだけで価値がある」という揺るがぬ確信をもって生きるということなのです。

~わたしたちの社会には、評価をとても気にして、振り回されて生きている、と思いました。今の自分では駄目、と言われている気がして、いつも「もっとしっかりした自分」を、どこかで求めてしまっている気がします。だからこそ、生きるのが苦しく、今の自分を否定してしまうような気がしました。それは、とても辛いことだと思います。

しかし、神さまは、その悲しみの連鎖を終わらせる力があります。なぜなら神さまは、「あなたがあなたであるだけで価値がある」と呼びかけてくださるからです。どんな時も、その喜びをもって生きてゆきたいです。


休む

片柳神父は次のように書いています。

自分のことしか考えられないくらい疲れてしまったときには、思い切って休みをとる必要があります。それは決して怠けているということではありません。隣人を愛し、神の愛を人びとのもとに届けるために、心身の疲れをとることは不可欠なのです。「隣人を愛するために休む」とさえ言っていいでしょう。


~私はここを読んで、疲れがたまると何事もネガティブに考えてしまう自分を思いました。しかし、お風呂につかったり、温泉にはいったり、はやく寝たりした後、目をさますと、昨日までのネガティブの思考が消えていたことがありました。疲れがたまると、また他人にもイライラすることはないでしょうか。片柳神父は「隣人を愛するために休む」と言っています。人間の体力には限界があるので、素直にそれを認め、休むことも大切にしたいと思います。


また片柳神父は次のようにも言っています。

「神の愛の中にゆったりと身を浸し、体と心を力で満たしていただく休養のひとときは、神との交わりのときであり、かけがえのない祈りのときなのです。」

~私はここを読んで、休養のときにこそ、ゆっくり神さまがしてくれた恵みを思い返せると思いました。忙しいときは気づかなかったことも、立ち止まって考えてみれば、近くに綺麗な花が咲いていたり、ゆっくり食べたら食事もおいしいことに気づきます。走ってばかりいては気づかないことも、休養してはじめて気づくことがあります。猫がゆっくり横になって安心してやすむように、わたしたちもゆっくり休むことができますように。