『希望する力』(キリスト新聞社)


日本の心に響く言葉を発信し続ける、晴佐久昌英神父、片柳弘史神父の、二人の司祭の共著。コロナ禍の時代を生きる私たちに、慰めに満ちたメッセージを発信してくれました。教会の使命とは何か、福音を伝えるとはどういうことか。人間の欲望を止めるにはどうしたらよいのか。色々なことを、学ばせていただきました。コロナ禍のなかにあった私たちに福音の喜びと希望を伝えてくれる慰めの一冊です。


★外部サイト

本のひろばより、香山医師より批評があります。PDFファイルです。ズームしたらみやすいです。https://honhiro.com/wp-content/uploads/2013/02/2020_12-2.pdf


耳を傾ける

片柳神父は次のように書いています。
「昨日は過ぎ去りました。明日はまだ来ていません。わたしたちにあるのは今日だけです。さあ、始めましょう」というマザー・テレサの言葉があります。現在の状況に当てはめて言うなら、過去、すなわちコロナの前にしてきたことに縛られるなということでしょう。過去に縛られると「あれもできなくなった。これもできなくなった」という嘆きが生まれます。「仕方がないから、これまでやってきたことを縮小してやろう」という発想では、教会は先細りになっていくばかりです。いま必要とされていること、いましかできないことを見つけて、全力を注ぐなら、これまで以上のことができるに違いありません。


~コロナになって、入院の患者さんにあえなくなったり、ミサや礼拝も制限がかかるようになりました。教会に必要とされていることはなんなのか、多くの教会がこの時に考えたのではないでしょうか。
YouTubeやZoomなどのミサや礼拝の配信もふえました。病気を抱えている方が、自宅から参加できることに、様々な可能性がみえたと思います。
教会に必要とされていることは、私はまっさきにフランシスコ教皇の言葉を思いました。


言わなければならないこと、やらなければならないことに慌ただしく立ち回るがゆえに、わたしたちは立ち止まって、相手の言葉に耳を傾ける時間を持てません。あらゆることに無頓着になり、耳を傾けてほしいと願っている人々のための時間を持つことができなくなる危険性があります。わたしは子どもたち、若者たち、お年寄りのことを思っています。これらの人たちは、言葉や説教を必要としているのではなく、耳を傾けてほしいのです。わたしたちは聴くことができているでしょうか。フランシスコ教皇
カトリック教会のHPより

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/09/05/24737/


~説教に夢中になり、耳を傾けることを忘れてしまうことがあります。しかし、耳をすますことから教会の使命は隣人に教えられるのではないでしょうか。育児に悩んでいるひと、生きる意味を見いだせない若者、老後の心配にあるかた。イエスが耳を傾けたように、まず隣人の前に立ち止まって耳を傾ける考えることからはじめたいと思いました。


分かち合い

片柳神父は次のように言います。

どれほどたくさん業績を上げ、人から評価されてもまだ足りないと感じ、さらなる業績、さらなる評価を求めて走り続ける。立ち止まって感謝し、喜びを味わう時間がない。そんなことが起こりがちなのです。

 個人的なことだけではなく、人類全体としても同じ反省ができるはずです。人間の欲望を掻き立て、次から次へと新しい物を買わせようとする大量生産、大量消費の社会システムは、果たして人間を幸せにするでしょうか。本当の幸せは、むしろ、与えられたわずかなものに感謝する心や、与えられたものを誰かと分かち合う喜びの中にこそあるのではないでしょうか。


~これを読んで、いますでに与えられたものに感謝することは大切なんだと思いました。立ち止まることを忘れたら、綺麗な花をみるゆとりもなくなり、次から次へと新しいものを欲しくなると思います。その心の奥底には、「今の私では不十分だ」という不安があるのではないでしょうか。しかし神様は今の私たちで、「あなたで良かった」と喜んでくださる方です。物は独り占めにするのではなく、困っている貧しい人たちとわかちあうとき、人は喜びで満たされると思いました。


鳥や花たち

片柳神父は次のように書いています。

将来のことを考えて思い悩んでいる人に、ぜひお勧めしたい聖書箇所があります。それは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」という言葉で有名なマタイ福音書6章25~34節です。この箇所の新共同訳聖書でのタイトルは、ずばり「思い悩むな」となっています。仕事や家事に追われ、鳥や花を見るために立ち止まっている暇などない生活をしていれば、心が荒み、将来への不安が生まれてくる。逆に、鳥や花をじっと見つめて立ち止まるゆとりを持ちさえすれば、すべての被造物に惜しみなく注がれる神の愛、この世界を満たした神の愛に気づき、思い悩む必要などないことに気づくだろう。この箇所で、イエスはそう言っておられるように思います。


~神様の作られた自然をみると、鳥たちや花は生きているだけで、尊い存在だと気づきます。自然をみる時間を忘れると、効率だけ求めてしまい、無駄な時間を排除しようとすると思います。しかし、無駄だと思う時間の中に宝物は隠されていると思います。花は時間をかけてゆっくり育ちます。人間も、神様の愛のなかでゆったり生きるとき、深呼吸して安心して生きられるのではないかと思いました。私は雨の音を聞くのが好きで、聞いていると落ち着きます。



いま、ここに、生きる

片柳神父は次のように書いています。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」ともイエスは言います。いまこの時にこそ、深く心に刻みたい言葉です。先のことまで思い煩い、それだけで疲れてしまって、いま自分がすべきことをしないなら、明日がよくなることはないでしょう。私たちはただ、「よりよい明日のために、いま何ができるか」だけを考えていればいいのです。「神の国と神の義」を求めて生きるなら、今日すべきこと、今日できることはいくらでもあります。先のことは神さまの手に委ね、安らかな心で今日この一日、いまこの瞬間を精いっぱい生きていきましょう。


~未来が心配で、今が置き去りにされてしまうことがあります。「もっと素晴らしい人間になってから、はじめよう」と思ってしまいますが、神様は弱く失敗しても、「やってごらん」と言ってくださいます。完璧じゃないからこそ、手をとりあって生きてゆけると思います。神様は必ず一人ひとりに、その人にしかない宝物を与えています。「今の私を愛してくださり、神に感謝」というとき、神様は喜んでくださると思います。いま、ここにいる、今のあなたでだいじょうぶです。


花を咲かせられない時もあっていい

片柳神父は次のように書いています。

渡辺和子さんが、代表作『置かれた場所で咲きなさい』の中で「どうしても咲けない時もあります。・・・・・・そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へ降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」と記しておられます。目に見える教会の諸活動が「花」であるとすれば、祈りこそ「根を下へ降ろす」ことだと言っていいでしょう。神様は、全世界を包み込む方と同時に、わたしたちの心の一番深いところに宿っておられる方でもあります。沈黙の祈りの中で自分の心と向かい合い、心の一番深くから響く神様の呼びかけに耳を澄ますことによって、私たちは、神様の恵みの大地に深く根を降ろしていくのです。その根が深くなればなるほど、次に咲く花は、神様の恵みに満ちた美しいものになるでしょう。目に見える活動という花を咲かせられないときは、祈りの中で信仰の根を伸ばすときなのです。


~ここを読んで、花を咲かせるだけではなく、ゆっくり休み、咲かせられない時もあってよいと思いました。業績だけを求めてしまいがちですが、業績よりも大切なことがあると思いました。それは、生きていること自体が尊いのであって、何かできることが大切ではないと思いました。花を咲かせられないときは、根を下へ深くはるときで、神様の愛という大地に根をおろせばよいと思いました。神様は「あなたはあなたであるだけで大切な存在。私はあなたを愛している」と、よびかけてくださいます。様々な情報があふれる中で、イエスに耳を傾け、「私は神さまに愛されている」と確信してすごしてゆきたいと思いました。


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