片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)


競争

子どもたちの心に「何かできたり、何か自慢できるものを持っていたりしなければ、注目してもらうことができない。愛されることができない」という思い込みが刷り込まれるのだと思います。大人の手を借りなければ生きられない小さな子どもたちにとっては、誰かから愛されることは死活問題といってよいでしょう。「愛されなくなったら大変だ」とばかりに、競争を始めてしまうのです。

そんな子どもたち一人ひとりに、「だいじょうぶ。きみは、とてもたいせつなかみさまのこどもなんだよ。きみには、きみにしかないすばらしさがある」と語りかけ、競争の呪縛から解き放ってゆく。それが、わたしの役目だと思っています。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)

~ここを読んで、他人に負けないために、必死になっている自分を感じました。確かに競争によってサービスはよくなります。しかし、人間の価値などは競争なんていらないと思いました。

私自身も誰かから認められるために、「いまの自分じゃもの足りない」とおもってしまうことがあります。そのため、背のびをしたり演技してしまいます。でも、いくら演技してもなんだか虚しく感じました。

片柳神父は「きみにはきみだけにしかない、すばらしさがある」と言います。きみだけとは、神さまは一人ひとりをオリジナルな存在として作られていると感じました。だったら、「私は私として生きればよいんじゃないかな?」と思いました。

友達が好きなものを好きといい、友達の趣味を自分の趣味にしなくても、良いんだと感じました。


あなたはあなた

あなたがあなたである、ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在だ。もし何もできなくなっても、わたしはあなたを愛している」。それが、キリスト教の説く愛。まったく無条件の愛なのです。このような愛に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。・・・。もし、「何もできない人間には愛される価値がない」と信じてこれまで生きてきたのなら、その思い込みを捨てることです。「何もできなくても、生きているだけで価値がある」と信じられれば、周りの人たちが注いでくれる無条件の愛も、きっと信じられるようになるでしょう。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)

私は他人からよく見られるために、何か頼まれても断ることが苦手です。しかし、頼まれても、不器用なのでやり方がわからなくいつも失敗して、相手を余計に困らせてしまいます。それは、自分の限界を認めていないからであると感じました。

タンポポがアジサイの花を咲かせられないのに、わたしはわたし以外の花を必死に咲かせようとしていたのかな、と思いました。

それは弱かったら見捨てられてしまう、という不安感からきていたと思います。

片柳神父の「あなたがあなたである、ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在」という言葉に、失敗だらけでも、人は神さまにゆるされてまたやり直しができると感じました。

弱さを抱えていても、決して見捨てられることはないと知ると安心を覚えました。時間はかかりそうですが、少しずつ自分の弱さを受け入れてゆきたいです。

人の弱さに指をさすのではなく、自分も弱さを抱えるものとして、助けあってゆきたいと思いました。


委ねて

素直にじぶんの限界を認め、自分にできないことはできないと認める。そして、自分にできないことは神にすっかり委ね、自分にできることに集中する。そうすると、余分な力みが消え、自分の思っていた以上のことができるようになります。・・・。与えられた能力がわずかなものだったとしても、もっとたくさん欲しいとは願わない。むしろ、そのわずかな能力に感謝し、その能力を徹底的に磨き上げてゆく。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)

~神さまは人間を完璧に作らなかった、と感じました。スーパーマンはいなく、誰もが弱さを抱えているからこそ、助け合えると感じました。神さまは、どんな人にもそれぞれ、素晴らしい宝物を与えておられます。同時にどんなに頑張ってもプロ野球選手になれない方もいるように、神さまが与えていないものもあると思います。

現在はともすれば、なんでも獲得し手に入れようとする時代です。たしかに便利になりましたが、同時にすぐ手に入らないとイライラしたり焦ってしまいがちだと思います。生きるのにはほんの最低限なものがあれば十分幸せになれるのに、「あれもなければ幸せになれない、これもなければ幸せになれない」となんでも欲しがってしまいます。そのため、持っていない自分にみじめさを感じてしまうのです。

そんな私たちに、片柳神父は「与えられた能力がわずかなものだったとしても、もっとたくさん欲しいとは願わない」といいます。立ち止まって神様に与えられたものがわずかであっても感謝できたなら、人は十分幸せであると思います。

花を次から次へと買ってくるのもよいですが、一輪の花を上から横から斜めから角度をかえて時間をかけてみると、様々な顔をみせてくれます。100本の花がなくても、立ち止まって感謝するなら、1本の花でも人は幸せになれると思います。


いまのあなたで

何があっても、自分を見捨てずに受け入れてくれる人がいる。自分は自分だというだけで愛してくれる人がいる。そろこそが、頑張る力の土台になるとわたしは考えています。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)

 ~子どもに理想を求め「もっともっと」と期待しすぎることがあります。期待するなかに「いまのあなたでは駄目だからで、もっと成長したら認めてあげる」という冷たさを感じてしまいます。

もちろん成長を祈ることは大切かもしれません。しかし同時に「いまのあなたでも十分だよ」と受け止めると、子どもはあんしんするのではないでしょうか。

「失敗しても、愛されているんだ。また、やってみよう」と思える子どもは、自分の弱さもしっかり見つめスクスク成長してゆくと思います。

神さまが与えてくれたわずかなものでも感謝するとは、目の前にいる相手を変えようとするのではなく、神様に作られた相手に「あなたで良かった」と喜び、愛することにつながってゆくと思いました。

「私はわたしであるだけで、どんなときも愛される」という確信こそ生きる力の土台になると思います。片柳弘史神父の書いた『何を信じて生きるか』を読む読書の旅はとても楽しいものでした。