子育て~『こころの深呼吸』より


自分の花を咲かせる

『こころの深呼吸』4月2日に『子どもが自分の期待通りに行動したとき褒めるのではなく、その子なりに頑張って成長したとき褒めるのが教育者。子どもが自分の思い通りに育つことではなく、その子らしく育つことが教育者の願いなのです』と書いてあります。

教育者はつい、子供に自分の思い通りになってほしいと押し付けてしまうことがあります。タンポポの花なのに、バラの花を咲かせようとしてしまうのです。それでは、子供は苦しんでしまうでしょう。一人一人は、神さまから違う花を与えられています。その花を大切にすることが、教育者の使命だと思います。

それでは、どのようにしたら、その子らしい花を大切にできるのでしょうか。『こころの深呼吸』11月15日の文章には、『成長とは、失敗と成功を繰り返しながら、自分に何ができて、何ができないかを、自分自身で学んでゆくということ。たとえ親でも、子どもに何ができて、何ができないかはわかりません。できるのは、子どもの成長に、そっと寄り添うことだけです。』と書いてあります。教育者は子供が失敗しないように、しがみついてしまいます。それでは、子供は自分は何ができて何ができないのか、さっぱり分からないまま成長してしまいます。神様は、私たちを信頼し失敗しても、「またやり直せるから、大丈夫だよ。私が一緒だよ」と呼びかけてくれます。教育者は、子供にしがみつくのではなく、挑戦できる環境を作ってあげるのが大切ではないでしょうか。失敗してもいいのです。失敗を繰り返しながら、自分を知ることができるからです。子供たちは、神様の愛をたっぷり受けて、自分らしい花を咲かせることができるでしょう。

 


最高の教師

自分の現実を知らないほど、苦しいことはありません。片柳神父は『実力以上の結果を出そうとすれば、緊張して実力さえ出せなくなります。これまでの積み重ねを信頼して全力で挑むとき、一番よい結果が得られるのです。ありのままの自分をさらけ出す勇気を持ちましょう。』と書いています。

 一番良いのは、ありのままの自分を知っていることです。自分のできないことはできないと認め、他人と力をあわせて協力していくことができます。失敗は、子どもたちに、自分は何ができて何ができないのかを教える最高の教師なのです。

 『こころの深呼吸』7月30日の文章に『大人になるとは、成功と失敗を繰り返しながら、自分に何ができて、何ができないかを知ってゆくということ。喜びと苦しみの中で、自分に与えられた役割を知ってゆくということ。「身のほど知らず」の自分が、少しずつ身のほどを知ってゆくということです。』と書いています。

 身の丈を知った子供は、背伸びして大きくみせようとすることはせず、自分の花を精一杯咲かせることができるでしょう。教育者のできることは、子供に寄り添い「大丈夫だよ。よくがんばったね」と誉めてあげることです。赦された経験をした子供は、たっぷりの愛をうけて、すくすく成長してゆくでしょう。

 


一人一人は大切な存在

3月23日には『「隣人を自分のように愛しなさい」と言いますが、人間は、自分を愛するようにしか隣人を愛することができません。自分を厳しく裁いて駄目な人間だと決めつける人は、隣人も同じように厳しく裁いてしまうのです。まずは、自分を愛することから始めましょう。』と書いてあります。

自分を赦せないと、「自分は赦されない人間だ」と誤解してしまうかもしれません。一番近くにいる自分を受け入れられないほど辛いことはありません。

教育者ができることは、子供が自分を愛することを応援することではないでしょうか。もし教育者だけの力で不安なら、神様は一人一人の弱さを含めて、ありのままの人間を愛していることを伝えたらよいと思います。子供は目にみえませんが、神様の愛を感じ、安心してゆくでしょう。子供たちは、「私は愛されている大切な存在だ」と、信じてよいのです。赦された経験をした子供は、ありのままの自分で輝くことができます。自分の限界を知っているので他人の弱さを笑うことなく、協力することができるでしょう。

 


理想どおりでなくても

最後に、『こころの深呼吸』4月6日の文章をみていきます。そこには、『新任の先生は、子どもが自分の思った通りに動かないと子どもに腹を立てます。「思った通りに動くのが当たり前」と思っているからです。ベテランの先生は決して腹を立てません。「子どもが思った通り動かなくても、そんなのは当たり前」と思っているからです。その子らしく育つことが教育者の願いなのです。』と書いてあります。

 この言葉は、『ぬくもりの記憶』でも触れられています。少し長いですが引用させていただきます。

 

 『幼稚園で保育の様子を見ていると、教室によってずいぶん雰囲気が違うことに気づく。ある教室では、子どもたちがのびのびと課題に取り組み、子どもたちの顔に安心と喜びが浮かんでいる。別の教室では、同じように課題に取り組んでいても、何か緊張感が漂っている。子どもたちの動きがどこかぎこちない。

 その違いは、どうやら先生と子どもたちの信頼関係から生まれてくるようだ。ベテランの先生は、子どもたちの動きを熟知し、子どもたちがどんな行動をしても驚かずに対応することができる。子どもたちをあるがままに受け入れながら、教室を大きな愛で包み込んでゆくことができる。だからこそ、子どもたちはのびのびと、自由に行動できるのだろう。

 ところが、まだ幼稚園で働き始めて日の浅い先生は、想定外の子どもたちの動きに戸惑い、子どもたちの動きを何とかコントロールしようとしてしまうことが多い。学校で習った理想の教室を思い描き、子どもたちを自分の思った通りに動かそうとしてしまうのだ。当然、子どもたちのあいだには緊張感が漂う。先生に気に入られようとして、子どもたちの動きがぎこちなくなってしまうのだ。

 幼稚園の教室以外でも、同じようなことが言えるだろう。状況を自分の思ったままにコントロールしようとする人の周りには緊張感が漂うが、状況をあるがままに受け入れられる人の周りには安心感が漂うのだ。状況をコントロールしようとする人は、心の中で自分自身も厳しくコントロールしようとしている。理想通りの自分になろうとして、緊張しながら生活しているのだ。その緊張感が、周りの人たちにも伝染してゆく。あるがままの自分を受け入れ、あるがままの状況を受け入れることができる、心のおおらかさを持ちたいと思う。』片柳弘史著『ぬくもりの記憶』(教文館)

 

 親はつい、理想どおりの子育てをしなければならないと、厳しい生き方をしてしまいます。しかし、完璧な人間はどこにもいません。誰もが神さまではなく、弱さを抱えた人間だと思います。完璧にしなければと思うほど、「あれも教えなければ、これも教えなければ」と、パニックになります。子育ての喜びや子供を愛することを忘れ「もっともっと、ああしなさい。こうしなさい」という言葉がでてきます。それでは、疲れはててしまうでしょう。イエス様は、弱くて裏切った弟子たちを、それでも愛し、赦されました。神様は、私たちの弱さすらも愛し「あなたはあなたのままで大丈夫」と慰めてくれる方です。教育者が、自分自身をありのままに愛したゆとりができたら、子どもにも伝わるはずです。まずは、親自身が弱くて不完全なありのままの自分を愛し、受け入れていくところから、はじめたらよいのではないでしょうか。

 『こころの深呼吸』2月20には『「神さま、助けてください」そう祈った瞬間、心を覆っていた不安や焦りが消え、すべてのことがはっきり見え始めます。いま何をすればいいか、はっきり分かるようになるのです。祈りほど実用的なものはありません。」と書かれています。一人でなにもかも抱えないで、自分の限界を認め、仲間たちに協力してもらえばよいでしょう。神様も、私たちが祈ると助けてくださいます。聖書には、「私の神、主よ、私を助けてください」(詩編109・26)と書いてあります。人間は、神様に「助けてください」とサポートを求めてよいのです。神さまと仲間たちのサポートをうけて、子供たちを、まっすぐに愛することができますように。